すべての文章は恋文だ。
読む人の心に響かない文は、何の役目も果たさない。
エッセイを書こう!
いかなる文章も恋文のように心を込めて書く。
気取らずに肩の力を抜いて、自分の体験、意見、感想、想いを心と文字で表現する、それがエッセイだ。
観察力、洞察力ときには取材力を駆使して自分の思いを込めたなら、そこに独自の視点が生まれる。
ありふれた現実やテーマを自分にしか書けない、独自の視点で表現するとエッセイになる。
あなたにしか書けないエッセイは「誰かに伝えたい」の想いが大事。
誰に伝えるか。
不特定多数を対象にするよりは相手を一人に絞って書く文章が、実は多くの人に伝わる。
文章は常にラブレターだと思って書く。
恋文、それこそが人の心に響くのだ。
あの大波はどうして、たった一度だけ押し寄せたのか?
私は小学生の頃から素潜りが得意だった。漁師だった父がアワビ採り専用のカギを用意してくれたのは、5年生の頃だったと思う。
あの頃、私が育った地域では、男の子であれば潜ってアワビやウニを採るのは当たり前だったが、専用のカギを持っている小学生は珍しかった。
だから私にとって、カギは水中眼鏡、冬のスキー板と並び三種の神器と言えるほど大事な宝物だったのだ。
海に潜り岩にくっついたアワビをはがす瞬間のスリルは、子どもの冒険心を十分に満足させてくれた。
だが、冒険心は気づかぬうちにエスカレートする。
「ああ、俺はこのまま死んでしまうのだろうか」
そんな危機に見舞われたのは、5年生の夏休みも終わりに近づいたころだった。岩の隙間から大ものが見える。これまで採ったどのアワビよりも大きい。
隙間の奥は広いが、入口は狭い。だがこの大ものは魅力たっぷりだった。何も考えずにカギを持つ手を突っ込む。岩肌でこぶしを擦ったが痛みを感じる暇はない。
アワビは苦も無くはがれてカギに引っ掛かる。だが、次の瞬間思わぬ事態に襲われたのだった。
手が抜けない。思いっきり引っ張っても隙間から抜けないのだった。父からもらった宝のカギを断腸の思いで放したが、やはり抜けない。
もがいても、もがいても手首がこすれるだけで時間は刻一刻と過ぎていく。呼吸が苦しい。意識も遠のいていく。
「俺は、このまま死ぬのだろうか?」
あきらめにも似た心境に陥った次の瞬間だった。身体がフワッと浮く感覚に襲われたのだ。水中でバック宙返りを打ったのだった。両脚が誰かに持ち上げられたように身体が後ろ向きにくるりと一回転した。
その勢いで、岩に挟まれた手は抜けていた。水上に顔を出し思いっきり息を吸ったのだが、何が起きたのか全く理解できない。大波が来たのだろうかと、あたりを見回したが海は相変わらずゆったりと横たえている。
呼吸を整え、大事なカギを探しに潜るとすぐに見つかった。カギは指先でつまみ出せたのだが、大ものクンがすぐそこでモゾモゾしているのが見えた。
全く懲りない子どもだった。執念だったかもしれない。
「おっ、これなら採れる」
アワビは吸盤のように固く吸い付いたところをはがされると、すぐには元のように吸い付いたり、速く逃げることはできない。
一度カギで引き寄せられたアワビは4、50㎝あった柄の長さでけで、今度は十分届いたのだ。
海は平然と穏やかだったが、大波が押し寄せたこと以外に身体が回転した理由は考えられない。子どもとはいえ、海中の両脚を持ち上げるのはかなり大きなうねりが必要だ。
「もしも、あの波が来なかったら」と、あの時は考えた。
だが、今は違う。
「どうして、あの時に限って大きな波が、たった一度だけ押し寄せたのか?」と考えるのだ。
果たして駅名は?
全く頼りない記憶力だ。
昭和47年か48年だったと思う。小海線に乗ったことがあった。山梨県小渕沢駅から長野県小諸駅まで八ヶ岳の麓を約79㎞にわたってのんびりと行くローカル線だ。
新聞配達をしていた学生時代は、春分の日が待ち遠しかった。当日の夕刊と次の日の朝刊が休みだから、ほぼ毎年1泊旅行に出かけたものだ。
その年は友人と二人で、長野県の松本城に行くことに決めていた。吉祥寺駅で待ち合わせて中央線で八王子まで行き、そこから中央本線に乗り換えて松本まで行く計画だったように記憶している。
計画といっても決めているのは目的地と乗る電車くらいで、いつものように宿の予約もしていない。中央本線にさえ乗れば松本にはたどり着くだろうという気楽な旅だ。
ところが、甲府駅に着いたあたりから計画はあやしくなった。思ったよりも中央本線の各駅停車はのんびりと走っていたのだった。
「このままだと松本に着くのはかなり遅くなる。夜になってから宿を探すのは大変だ」と友人が言う。
そこで、小渕沢駅で小海線に乗り換えて小諸に向かうことにした。しかし、小海線で千メートル超の高原を走るのは楽しかったが、小諸もまた遠かったのだ。
日が落ちて八ヶ岳も見えなくなり途中下車することにした。このとき降り立った駅名はずーっと『海ノ口温泉駅』だと思っていた。
だが、ふと思い出してネットで調べてみたら『佐久海ノ口駅』になっているではないか。ウイキペディアで調べても駅名が変更になったとは書かれていない。
駅が所在する南牧村役場に問い合わせたけれども、若い男が電話の向こうで「駅名が変わったなんて聞いたことありません」とにべもない。
JRのお嬢さんは電話を保留にしてかなり時間をかけて調べてくれたが、やはり駅名の変更は確認できないとのことであった。記憶なんて頼りないものだ。
駅名はおぼつかないが、翌朝、下駄で踏みしめた名残雪と、前夜、宿を丁寧に教えてくれた駅員さんの親切な笑顔だけは、記憶から消えることはない。
ゴム長の青春
着いたのは2月の上野駅だった。前日、雪の札幌駅から特急列車に乗り、函館駅へ到着。
午後の青函連絡船で一路、青森港を目指したのだが津軽海峡の情景は何一つ覚えていない。実はもう記憶さえとぎれとぎれの、はるか昔のことなのだ。
覚えているのは、札幌の倍近くもあろうかと思われた青森駅周辺の豪雪と、東北本線の混雑だ。上りの夜行列車は混沌と退屈と中途半端な眠気を乗せて長い闇をひた走った。上野駅に降り立った時はすでに夜が明け切っていた。
改札を出て、記念すべき内地での第一歩を踏み出したのだが、あれ、あれと目を疑った。真冬なのに雪がない。しかもゴム長を履いているのは自分一人だ。雪のない東京のど真ん中でたった一人ゴム長とは。
前年の3月に高校を卒業したばかりの19歳にとっては、顔から火が出る思いだった。だが、今更どうしようもない。恥を忍んで歩くより仕方なかった。
国鉄上野駅から少し歩いて、京成電鉄などを乗り継ぎ、最終目的地は千葉県の山奥だった。どんな仕事が待っているのか、この時点では知らされていない。
というよりも、私を誘った連中も誰一人詳しく知らないのだから、のんきというべきか無鉄砲と言うべきなのか。今思えばそんな無謀さえも、どうにかなった時代だったのだ。
私はどうしても大学へ行きたくて、お金を貯めようと郵便局を半年ほどで辞めてしまった。もっと手っ取り早く稼ぎたいと思ったからだ。
当時、最も賃金の高い札幌の地下鉄工事現場で働いていたのだが、そこで知り合った連中から声をかけられたのだ。
「東京へ行くと日当2,500円もらえるぞ」
「よし、行く」
札幌冬季オリンピックを控えて、急ピッチで進む地下鉄工事は北海道でダントツの日当2,000円だったが、それより500円も高いと言う話に飛びついたのだ。
千葉県の五井駅に着くと迎えが来ていた。車に揺られて20分も走っただろうか。おんぼろ車は真新しい飯場の前で止まった。
真冬のプレハブ小屋から再スタートした仕事は、ゴルフ場予定地で樹木を伐採することだった。もう、ゴム長も恥ずかしくなかった。
阪神・淡路大震災と取り立て屋K
テレビのスイッチを入れると黒煙が立ち上る神戸の街が映っていた。煙は一カ所だけではない。画面が変わると、倒壊した多くの建物が無残な姿をさらしていた。ただ事ではない。
阪神・淡路大震災の一報をテレビニュースで知らされたのは、1995年1月17日の早朝だった。
神戸と言えば、いやでも思い出さざるを得ない男がいた。取り立て屋のKだ。この男が元銀行員だったと言うから驚く。どこからどう見ても銀行員のイメージではない。
ワイシャツの第一ボタンをはずして、ネクタイはユルユル。おまけに頭は丸刈りで、歪んだ口元がさらに迫力を加えている。光のない鋭い目つきと出っ歯気味の口から吐き出す言葉には、人情のかけらもない。
他社の保証人になっていたため、私の会社はKが勤める会社に2千万円の債務を背負うことになった。その返済方法を取り決める窓口になったのがKだ。
「担保はない」
「じゃ、手形を切れ」
「手形は切らない主義だ」
Kは実にしつこい取り立て屋だった。
「社長、1千9百万円にまけてやるさかい、38万円額面の小切手を50枚切りいや」
「これが最後や、もう妥協できへんで」
こんな時の関西弁ほど腹立たしいものはない。私は根負けした。毎月38万円ずつ返済しなければならなくなったのだ。当時の私にとっては、実に重い金額だった。
神戸が大震災に襲われたのは、それから数か月後のことだ。震災の次の日、私はKの会社へ電話をしたが呼び出し音だけ鳴って応答はない。その次の日も電話をしたが、やはり誰も出なかった。
電話の呼び出し音を聞きながら「あいつの会社なんて、潰れてなくなってしまえばいいのに・・・」との思いが心のどこかにあったのは否定しない。
だが、三回目も電話がつながらないと、心境は全く変わっていた。
「おい、おい、本当にダメになってしまったのかよ。まさかKやあの社長の身に・・・」
毎日、電話をかけ続けた。8日目か9日目くらいだった。「もしもし」ようやくつながった。しかも電話に出たのはK本人だ。
短い会話で終わったが、Kの声は明らかに沈んでいた。それから1月ほどして、Kが予告もなしに会社へ現れたのだ。帰るとき彼をエレベータまで送った。
「ワシみたいな奴でも心配して電話くれる人がおるんやな」
彼はそう言い残してエレベータに乗り込んだ。
それから2週間ほどして彼はまた会社へやってきた。応接へ案内するなり、テーブルの上に紙袋を放り投げるではないか。袋の中身はこちらが渡した小切手の束だった。
『禍福はあざなえる縄の如し』という。
「山のあなた」と「見果てぬ夢」
これまでいくつの詩を読んだことだろう。数々の作品に心動かされた一方で、多くの詩を忘れてしまった。
だが、生涯忘れることはないだろうと思うのが、カールブッセ作で上田敏の訳が秀逸な『山のあなた』だ。
山のあなたの 空遠く
「幸」住むと 人のいふ
噫、われひとゝ 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたに なほ遠く
「幸」住むと 人のいふ
この詩と出会ったのは中学校の国語の教科書だった。感動というよりは強い衝撃に襲われた記憶が残っている。
あの当時の私には「幸(さいわい)」の概念などまるでなかった。山の彼方に求めていたのは、ただただ「夢」だけだった。
「いつか自分は、この田舎から遠くの町へ出ていくだろう。」その思いと「山のあなた」が重なった衝撃だったと思う。
だから、中学生の私には前半の二行しか頭に入ってこなかったのだ。
「自分の夢は山の彼方の空遠くにある」
夢破れた状況など、想像すらできない年齢だった。
あれから、もう何十年も夢を追い続けている。捕まえた小さな夢もあるし、破れた夢は数知れない。今は、詩の後半二行が頭から離れない。
山のあなたに なお遠く
「幸」住むと 人のいふ
山の果てまで追いかけた夢に破れても、さらにもう一つの山の彼方へ思いをはせる。
憧れと真の幸せは違う。山の向こうに見える幸いは幻に過ぎない。本当の幸せは身近な足元にある。カールブッセや上田敏はそう伝えたかったのだと思う。それでもなお、私は山の向こうに夢を見るのだ。
夢とチャンスは表裏一体だ。夢がなければチャンスもこない。死ぬまで「見果てぬ夢」を追い続けることができたなら、これほど幸せな人生はないだろう。
懐かしいたった二度の会話
元米倉ボクシングジムの会長だった米倉健司さんが亡くなられた。88歳だったというから天寿を全うされたのだろう。
私は学生時代、プロボクサーを目指して米倉ジムで練習に励んだことがあった。当時は柴田国昭さんやガッツ石松さんが立て続けに世界チャンピオンになるなど、米倉ジムの第一次黄金時代ともいうべき時期だった。
小学校の体育館の半分ほどしかないジムだったが、午後6時を回ると多くの練習生が集まり、その凄まじい迫力は外の通りまで伝わったものだ。
私はその混雑を避け、授業をさぼって昼の時間帯を選んだ。昼のジムは閑散としていたから、夜では経験できない濃密な練習時間を過ごすことができたのだった。
入門したばかりでも、トレーナーが個別に声をかけてくれたし、時には質問にも答えてくれた。世界チャンピオンの練習も間近で見ることができて「おお、すげえ」と驚きと興奮の中で練習した記憶が残っている。
米倉会長も時々顔を出して、ジムをゆっくりと歩き回っていたが、ある日、その会長に声をかけられたのだった。
壁際で一人シャドーボクシングをしていると「君はパンチングボールを叩ける」と聞いてきた。私のすぐ横にはパンチングボールがぶら下がっている。
「いえ、できません。」
「これ、難しいんだよなあ、8の字に叩くらしいけど、僕は今でもできないんだ」
そう言いながら会長は、ぎこちなくパンチングボールを軽くたたいた。
世界チャンピオンの座には届かなかったとはいえ、米倉会長は日本チャンピオンと東洋チャンピオンに輝いた男だ。それにしては何と正直な人だろう。
他の練習生と話す会長の姿など見たことがないから、私はびっくりした。雲の上でも歩くような感覚にとらわれたことを昨日のことのように思い出さずにはいられない。
それから数日後、また会長が近づいてきた。
「君はお尻が小さいから、減量には苦労しないタイプかな。これだけ身長があってフェザー級で出来たら、日本のボクサーでは貴重だな」
やはりこの時もニコニコと、穏やかに話かけられたのだった。
鍛え上げた人間が一対一で「生き物の本能」をむき出しにして戦うのがボクシングだ。現役を引退したとはいえ、その百戦錬磨の強者がなぜあれほど穏やかなのか。
私はその直後、プロテストを目前にしてボクシングをやめてしまった。だからボクシングにはそれほどの思い出はない。
だが、あの二度の会話だけは米倉会長の深い人間性に触れた思いがして、いつまでも忘れられないのだ。
合掌
なぜ、ボクシングを途中でやめたのかって?
それについてはまた別の機会に。
ゴールデンウィークの悲しい思い出
北海道の五月は躍動の季節だ。人も自然も動物も一斉に躍動する。だが、自然相手に人は無力を実感し、悲しみに暮れなければならない時もある。
その悲しみに遭遇したのは、中学二年のゴールデンウィークだった。
隣の集落から三人の同級生がやってきて、近くの渓流へイワナ釣りに出かけることになった。
「イワナがごっそり釣れたら、どうしよう」「熊が出るかもなあ」。
三十分ほどの道のりをたわいもないことを言いながら歩くのが、たまらなく楽しい。
だが、この時はまだ、あんな悲しい思いをするなんて想像もしていなかった。
渓流に糸を垂らしてから、もう一時間はとっくに過ぎていたが、誰の竿にも全くあたりがない。石の上を飛び回って、あっちこっち場所を移動するが、何の手応えもなく時間だけが虚しく過ぎていく。
もう少し上流へ行こうと、釣り針を上げた時だった。近くの藪がガサガサと大きな音を立てた。息を飲んで振り向く。他の三人も身を固めて藪を凝視する。
次の瞬間だった。バサバサと藪が大きく揺れる。勢いよく飛び出してきたのは大型の鳥二羽だった。
「なんだ、鳥かよ」。誰も口にしないが、四人の想像した動物は同じはずだ。安堵の空気が流れる。
それにしても、イワナは釣れない。気配さえ感じないのだ。
二時間もたつと他は誰も糸を垂らしていなかった。笹舟を作って水に浮かべたり、向こう岸に石を投げたりして、それぞれ勝手気ままに遊んでいる。
だが、自分は釣りをやめられない。隣の集落からわざわざ友人がやってきたのだ。いわば自分はホスト役だった。
せめて四匹釣って、一人一匹ずつ分けたい。いや、自分の分はいらないからせめて三匹だけでも。それがついには「一匹だけでも釣れてくれー」と悲痛になっていた。
時間は容赦なく過ぎて「もう帰ろう」の声が上がる。あきらめざるを得なかった。
一匹も釣れないなんて、何と悲しいことだろう。ああ、世の中にこんな無情があっていいものか。世界中の悲しみを一人で背負ったような気分だった。
ホストの面目丸つぶれだが、自然には勝てない。悲しみに打ちひしがれながら、竿を畳んだ。
「ああ楽しかった」「面白かった」「熊に会えずちょっと残念」。
三人は晴れ晴れと笑う。
その言葉を聞いたとたん悲しみなんて、一瞬にして五月の高い空の彼方へ吹き飛んで行ってしまった。
のどかな少年時代だった。イワナを一匹も釣れなかった事が、人生最大の悲しみに思えたのだから。
NHKニュースで「今日から飛び石連休が始まりました」と伝える時代だった。