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止まない雨は降ったためしがない。夜明けは必ずやって来る。

エッセイ

ことわざのように流布する「止まない雨はない」は、出所も作者も不明。

「明けない夜はない」は、シェイクスピアの戯曲『マクベス』に由来を見ることができます。

 

だが、この記事のタイトルではあえて『止まない雨は降ったためしがない』『夜明けは必ずやって来る』と表現しました。

 

その理由は、この記事に綴った私のエッセイを読んでいただければ、おいおい分かっていただけると思います。

波乱に満ちた人生を振り返り、明日への糧にするため書き続けます。

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私とは無縁の世界『学閥』

山崎豊子が小説『白い巨塔』で、鋭くえぐった医学界の学閥。

「物語の中だけではなく、現実にある話なんだなあ。」

友人と話していて、そう思ったことがある。

 

友人の牧野知弘氏が広くメデアに知られるきっかけとなったのは2014年、祥伝社からリリースされた『空き家問題ー1000万軒の衝撃』だった。

 

彼は東京・有楽町に事務所を置く『オラガ総研』の代表を務めるかたわら、これまで20数冊の書籍を出版し、講演で全国を飛び回る不動産業界では知る人ぞ知る存在だ。

 

今では週刊誌に連載を持ち、テレビのニュース番組にも登場する売れっ子だ。

その牧野氏が10月初旬、講演で札幌にやって来る。

 

講演が終わったあと、小樽で会うことになった。

久しぶりに二人で飲める。

 

私は彼と会うのを心待ちにしながら、4年前のことを思い出していた。

2019年に、彼が講演で札幌を訪れた時のことだ。

 

その時は私が札幌のすすきのに出向き、寿司屋で酒を酌み交わしたのだった。

気の合う二人が久しぶりに会ったのだから話題は尽きない。

 

だが、私は彼について一つ引っ掛かることがあり、いつか聞いてみようと思っていた。

話題が途切れかかったところを逃さず訊ねてみた。

 

 

「ところで牧野さんのお父さんは、なぜ東大に入ったことを怒っていたの」

彼の話によるとお父さんは医師で、後年は聖路加病院の病院長を務めた人だった。

 

とても優秀な医師だったのだ。

したがって、学界でもかなりの地位にいたであろうことは想像に難くない。

 

出身は東北大学医学部だ。

それゆえ職場でも学会でも、東大医学部出身の医師と何かにつけて衝突したのだという。

 

そんなこんなで、いつしかお父さんの頭の中には「東大イコール変な大学」の図式が出来上がってしまったのだろう。

 

子どもが東大に合格したら赤飯を焚き、親戚中をあげてお祝いする。

それが世間の相場だ。

息子の東大入学が対立の原因となるなんて、世にも珍しい親子ではないか。

 

それにしても、学閥という目には見えない壁と壁。

噂レベルでは知っていたが、生々しい実態を聞くのは初めてだった。

凡人の私には想像を超えた世界があるのだと、しみじみ思ったものだ。

 

いや、しみじみしている暇などなかったのだ、実は。

この話を終えるや否や彼の口から驚きの情報が飛び出したのだ。

「実は、まだ内緒だけど別府温泉に、インターコンチネンタルホテルの誘致に成功したんですよ」

 

それから数か月後の翌春、インターネットニュースが大々的に告げていた。

「別府温泉にラグジュアリーリゾート誕生へ!インターコンチネンタルホテルが進出」

やるねえ、牧野サン。

 

どうせ話すなら建設的で、ささやかでもいいから夢を持つ人との会話が、やはり楽しい。

酒も旨くなるのだ。

 

さて、今度の再会ではどんな話が飛び出すか。

実に楽しみだ。

 

銀座は後か、それとも先か?

未来を語り、夢を語る友と飲む酒は旨い。

そんな友人と久しぶりに再会できる。

 

札幌で講演することになったので終わったら一杯やろうと、友人の牧野知弘氏から連絡が入ったのは9月半ばだった。

 

「今回は僕が小樽まで足を延ばします」と言うから、うれしい

斯界で大活躍中の彼から、今度はどんな話題が飛び出すか楽しみだ。

 

2023年10月初旬の夕方だった。

私はホテルへ迎えに行ったのだが、直前までリモートでテレビ朝日の取材を受けていたというから忙しい。

 

ホテルから歩いて10分ほどの居酒屋『百年坊』へ案内し、カウンターへ座った。

母と娘二人の女性ばかり一家三人で切り盛りする、魚の美味しい店だ。

 

飲み始めて1時間もすると、やはり出ました。

今回も夢いっぱいの話題が。

 

東大から13人の学生グループと副学長を引っ張り出すことに成功し、四国のある県と何やら企画が進行中だという。

 

村おこしや町おこしレベルではなく、県全体の活性化を目指しているのだ。

独特な彼の発想と大胆な行動力には度々驚かされるし、実にいい刺激にもなる。

 

話題が一段落すると彼は携帯を取り出し、百年坊のママに私とのツーショットを撮ってもらった。

「最近、銀座で千葉さんを話題にしながら酒を飲んでいるんですよ。だから、これがいつも話しているちばチバちゃんだと銀座のお姉さんに写メールを送ります」

 

そういって、LINEを送信した。

自分のいないところで話題になるなんて、実に光栄なことではないか。

よし、それなら来年はどうしても、東京に行かなければならないだろう。

 

2020年に上京した時、牧野さんに連れて行ってもらった居酒屋がある。

新橋の赤レンガ通りだった。

あの美人ママの店でハイボールを飲んで、そのあと銀座に繰り出そう。

 

いや、待てよ。先に銀座へ行き、店がはねた後にホステスを引き連れて居酒屋へ行こうか。

どっちにしても、勘定はすべて稼ぎのいい牧野さん持ちだ。

 

「銀座は後にするか、それとも先に行こうか、それが問題だ」

他人の財布を当てにして、妄想は尽きないのだから我ながらヤバい男である。

 

空の上の仕事人

「こいつとこれから、7時間も一緒とは」

私はホノルル行きのJAL機内で、うんざりしていた。

 

ついさっきまでは、初めて座ったファーストクラスで心浮き浮きだったのに。

成田空港で機内へ案内されると隣の席には、まだ誰もいない。

 

「この席に座るのは、もしかしてダイアン・レインのような・・・」と想像をたくましくしていたのだった。

だが、出発間際に現れた男によって、妄想はしぼむどころか音を立てて破裂した。

 

男は座席の横に立つと乱暴に靴を脱ぎ、勢い余って片方がゴロンとひっくり返る。

それには目もくれず上着を床に脱ぎ捨て、外したネクタイを放り投げるではないか。

 

スチュワーデス(客室乗務員)がやって来て、表情一つ変えず手慣れた様子で目の前の収納スペースへ片づける。

飛行機は間もなく飛び立った。

 

離陸して30分ほど経っただろうか、食事が運ばれてきた。

隣りの男がまじまじとのぞき込む。

 

「何?その弁当は。こっちとは違うな」

「ああ、私は肉を食べないから」

 

通路と座席を仕切っているカーテンが開いて、顔をのぞかせたのは男性のチーフパーサーだった。

 

「千葉様のような肉を召し上がらない方も、欧米では菜食主義になります。私は20年以上飛行機に乗っていますが、菜食主義のお客様は、日本人より欧米人のほうが多いですね」

 

場を和ませようとスチュワーデスもパーサーも、いろいろ気を使ってくれるのだったが、鈍感な奴には人の気遣いなどわかるはずもない。

 

「何しにハワイに行くの」

今度はそう聞いてくる。

 

仕方なく答える。

「社員を連れて、慰安旅行」

 

「ハワイまで行って、ただ遊ぶだけではもったいない。不動産を買っておけば、今なら黙っていても儲かる。私がいい物件を紹介するよ」

 

そう言いながら、怪しげな社名の入った名刺を出した。

実に鬱陶しい。

教養のかけらも感じさせない不思議な男だ。

 

現在のファーストクラスは個室が主流だ。

けれども、バブル経済華やかなりし頃の1989年当時は、多くがペア席だった。

 

地上を遠く離れた空の上で、こんな奴とペアを組むことになるなんて、ああ世間とは本当にままならないものだ。

 

これはもう、観念してタヌキ寝入りを決め込むより他ない。

目をつぶってしばらくすると隣の席から人の立ち上がる気配がした。

 

その、わずか数秒後だった。

座席横のカーテンがサッと開く。

 

「千葉様、どうぞこちらへ。そのままでどうぞ。

靴もお荷物も後で私が運びますから」

 

私はスチュワーデスに手を引かれるように、スリッパのまま別の席へ移った。

その席は二つとも空いている。

 

リクライニングシートを少しだけ倒してゆったり身を沈め、席を確保し荷物を片づけてくれた彼女に謝意を伝えてグラスワインを頼んだ。

 

すぐにチーフパーサーもやって来て、静かな声で言う。

「こちらで、どうぞごゆっくりおくつろぎください」

 

なんという素早い動き。

しかも誰をも傷つけないように、敵が席から消えたわずかな時間を狙ったのだ。

 

息の合った二人の連携。

これぞプロの仕事だ。

 

隣の男に「あいつはどうした?」と聞かれた彼女が

「あのお客様は、銀河鉄道にお乗り換えになられました」。

 

そう答えたら実に愉快なのに、などと考えているうちに本当の眠気が襲ってきた。

 

ババ自慢

示唆に富んだ祖母の一言に、これまでどれほど励まされたことだろう。

明治生まれの祖母は実に多才な人だった。

 

料理の味は天下一品で、正月や学校行事に用意してくれるお重の盛つけが、いつも目を見張るほど色鮮やかだった。

天性の色彩感覚と言っていいだろう。

 

裁縫は近隣の娘たちが習いにきたほどの腕前だった。

しかも、自分は誰から習ったわけではなく、古い着物をほごしながら仕立て方を覚えたのだという。

 

明治時代、まだ未開だった北海道の辺境で育ち学校とは無縁なのに字を読めたし、畑仕事も玄人はだしだった。

 

猫の額のような土地を耕して花を植え、トウキビ、イチゴ、スイカ、アジウリなどを栽培する。

昭和30年代後半には、メロン栽培に成功し周囲を驚かせた。

お陰で私たち孫は、毎年のように季節の味覚を堪能できたのだ。

 

今でも慶弔事に親戚一同が集まると、必ずと言っていいほど祖母の話題が出る。

孫が競うように偉大さを称えるのだ。

 

それを聞きながら兄嫁が笑う。

「始まりました。ババ自慢」

 

祖母の凄さはそれにとどまらない。

小学生の時に聞いた言葉があまりにも哲学的だ。

 

9月の半ばだったと思う。

北海道は秋の長雨に見舞われていた。

 

「イヤだなあ、この雨。いつになったら晴れるんだろう」

毎日、毎日降り続く雨が道端の泥をはね上げるのを見て、憂鬱を超え心細ささえ覚えた小学生の私がポツリと漏らしたのだ。

 

それに対して笑いながら発した祖母の一言に、心が少し軽くなった記憶が残っている。

だが幼い私は、その場限りですぐに忘れてしまっていた。

 

あの至言が忽然と頭に浮かんだのは、経営していた会社が苦境にあえいでいた時のことだった。

「心配ないよ。今まで止まない雨は降ったためしがないから」

 

それ以来、この言葉に励まされたことは一度や二度ではない。

大人になってようやく、言葉の持つ意味の重さが分かったのだった。

 

今は「止まない雨はない」が流布しているけれどメデアが限られていたあの頃は、まだ一般的な言葉ではなかったはずだ。

 

いつも前向きで愚痴など一度もこぼしたことのない天才ババは、私の中に今もしっかりと生きている。

 

バンコクの別れ

彼女は泣いていた。

大勢の人が行きかうタイ・バンコク郊外の国際空港ロビーだった。

 

はじめのうちは「ありがとう」と笑顔だったが、すぐに抑え難い感情に襲われた様子で、声をつまらせ両手で顔を覆う。

 

あれほど快活でストレートだった彼女の涙を見ることになるなんて、想像もしていなかったので驚き戸惑った。

 

日本が高度経済成長路線をひた走っていた昭和49年の晩秋。

A新聞の奨学生だった私は4年間新聞配達を務め上げた褒美として、40人ほどの仲間とともにアジア旅行をプレゼントされた。

 

香港、シンガポールを経て最後の滞在地であるタイのバンコクで4日間を過ごし、移動には大型の貸切バスを使った。

関係者を含めた総勢40数人が2台に分乗するのだから、実にゆったりした旅行だ。

 

バスにはそれぞれ一人ずつガイドが付き、どちらもタイ人の夫を持つ日本女性だ。

別のバスを担当したガイドは、女優の倍賞美津子に似た個性的な美人だが、私たちの方はいたって平凡な顔立ちの日本女性だった。

 

だが、その平々凡々が明るくておしゃべりだから楽しい。

何よりも現地のことついて詳しいのには、誰もが感心し納得した。

 

豊富な話題にユーモアが加わり、バスの中はいつも笑いに包まれ和やかだった。

話はしばしば脱線するから、さらに盛り上がる。

 

「向こうのバスに乗っているガイドさんのご主人は、どうも秘密警察らしいの」

「家が隣同士なんだけど、私は一度も顔を見たことがないのよ」

 

座席から声が飛ぶ。

「そんなことバラしたら、秘密警察にならないじゃないか」

 

「大丈夫よ。あなたたちはもうすぐ日本に帰ってしまうし、当分はタイに来れないでしょうから」

SNSなどない、のんきでおおらかな時代だった。

 

見知らぬ異国の4日間で、ざっくばらんな彼女と我々学生たちの間には、サークルの先輩後輩のような雰囲気ができていた。

 

楽しかった旅行最後の日、バスは帰国便の待つ空港へ到着する。

彼女も一緒にバスを降りた。

 

空港ロビーに入ると誰からともなく「彼女を胴上げしようぜ」の声が上がる。

小柄な身体が二度三度宙に舞った。

 

「ありがとう。こんな楽しいガイドをしたのは初めて。あなたたちを見ていると、日本が急に恋しくなってしまって。私も帰りたくなって・・・・・」

もう最後の方は涙で声が震え、言葉にならない。

 

「こっちに来て間もなく結婚し、10数年間一度も日本に帰っていないの」と言っていた彼女の言葉を思い出した。

 

タイに来てから一度も帰国していないのはなぜだろう。

どんな理由があるのだろう。

 

一瞬だったが、私は彼女の身の上に想いを巡らせた。

だが、若かった自分に他人の事情など分かるはずもない。

 

間もなく彼女はいつもの明るさを取り戻した。

けれども頬に伝った涙を見て、彼女の人生の重さにちょっぴりだけ触れた思いがしたのだった。

 

かぐや姫を超えた少女

吉田由美子は不思議な少女だった。

私の学んだ大学は当時、入学試験に面接が必須の珍しい入試スタイルをとっていた。

 

一日目の学科試験が終わり二日目の面接日、教室で順番を待っていた時のことだ。

「どこの出身ですか」と隣の席から声をかけてきたのが、吉田由美子だった。

虚を突かれ「北海道」とぶっきらぼうに答えた。

 

「君はどこ?」と気の利いた問い返しなどできるはずもなく、私は読みかけの本に目を落とすのが精いっぱいだった。

 

だが、彼女は全く悪びれる気配がない。

自分は東京の江戸川区に住んでいると言い、それからも何度か話しかけてきたのだった。

 

待ちわびた大学生活が始まって1ヶ月が過ぎた五月の半ば、吉田由美子と再会した。

枝いっぱいに青い葉をつけたイチョウ並木が、キャンパスのど真ん中を貫いている。

 

その中央付近で、すれ違いざまにどちらからともなく「あっ」と声をあげ立ち止まった。

面接の順番を待つ間のぎこちない会話ながら、互いの名前と顔だけは忘れずにいたのだ。

 

私は一人だったが彼女の傍らにはボディーガードのように、男子学生二人が寄り添っている。

喫茶店に行き、雑談をしながら明日も四人で昼食をとる約束をして別れた。

 

「千葉君、明日も学校へ来るよね」。

それからは、四人で食事に行くと決まって吉田由美子はそう聞くのだが、私はその意図を間もなく察した。

 

二人のボディーガードは、どちらも彼女に好意を抱いている。

内山はあまりそのようなそぶりを見せないが、山形から出てきたという徳野はまるで遠慮がない。

 

「近い将来、必ず山形の田舎に由美ちゃんを連れて帰るぞ。

そして、両親や友人、親戚一同にこれが俺の彼女だと、大々的にお披露目するのだ」

 

口にこそ出さないがギラギラした顔に、ハッキリとそう書いてあるのだから正直な奴だ。

彼女にはそのことがよくわかるのだろう。

だから三人だけになったり二人きりになるのは、できる限り避けたかったのだ。

 

だが、三人といても私はあまり楽しくない。

新しい友人もできて、彼女たちとは次第に疎遠になっていった。

 

キャンパスのイチョウ並木があざやかな黄金色に染まった頃だった。

彼女は珍しく女友達と二人だけで歩いている。

 

ベンチに腰を掛けてしばらく話し込んだが、彼女の口から内山や徳野の名前が出ることはなかった。

 

学生の数が少なく小規模な大学だったから、それ以降も時々彼女の姿をキャンパス内で見かけるのだが、複数の男子学生に囲まれていることが多かった。

 

吉田由美子は、異性から本当に人気がある。

だが私には、その理由がよくわからない。

 

一緒に食事をしたり話す機会は何度もあったが、面接のときに向こうから声をかけてきたのがウソのようにおとなしい娘だった。

 

服装も地味で、見惚れるほどの美人でもない。

笑顔を絶やさず、黒髪からシャンプーの香りが漂ってくるような清潔感が特徴と言えただろうか。

 

2年生になると、そんな吉田由美子の姿を見る機会が、めっきりと減っていた。

特に夏休みが終わると全く出会うことがなくなったのだ。

 

もう彼女のことを忘れかけていたあくる年、2月の終わりだったと思う。

葉を落としたイチョウ並木が灰色の空の下で震えているような寒い午後だった。

 

校門をくぐると、暖かそうな紺色のコートに身を包んだ吉田由美子がこちらへ向かって歩いている。

「おお、しばらく。もう帰るの」

「あら、お久しぶり。なんだか懐かしいくらいお久しぶりね」

 

寒空の下、彼女の表情だけはもう春が来たように明るかった。

「今、退学届けを出してきたの」

「えっ、学校辞めたの?」

 

彼女は微笑を絶やさない。

「オーストリアへ留学するの。行くのはまだ先だけど、準備することがいっぱいあって」

 

「私には学問より、やっぱり音楽があっていると気づいたの」とも言った。

小学生のころから習っていたフルートを本格的に学ぶため、ウィーンに行くのだという。

 

都内の音大へ再入学することも考えたが、ウイーンで受け入れてくれる学校が見つかったので、そちらを優先したようだ。

 

昭和47年頃の話である。

私には到底理解の及ばない彼女の言葉だった。

 

貧しい北海道の漁村で育った私にとって、東京の大学で遭遇した1、2を争うカルチャーショックだった。

狐につままれたような思いで彼女の顔をみつめる。

 

しかし委細かまわず「元気でね」と言い残し、彼女は小さく手を振って歩き始めた。

未練など欠片もありません。背中でそう表現しながら校門を出て行く。

右に曲がってすぐに姿は見えなくなった。

 

数多の男子学生を振り切って、誰も手の届かないウィーンに行ってしまうのだ。

言い寄る数々の男たちになびくそぶりもみせず、月に召されたかぐや姫のことが、とっさに脳裏をよぎった。

 

同時にあれほど男子学生に囲まれていた彼女の魅力に、その時ようやく気づいたのだ。

 

普段はつつましやかで控えめだけれど、内に秘めた意思の強さと物怖じしない大胆な行動力。

そのギャップが人を惹き付けて離さないのだろう。

 

もうすっかり忘れてしまっていた過去のことだったが、今秋のスーパーブルームーンを見ていたら、かぐや姫と重なって、なぜか19歳のまま彼女も月に映っているではないか。

 

月から迎えが来たときに「そのような所へ行くことも、嬉しいとも存じませぬ」。

かぐや姫は翁に、そのように言っている。

 

自分の意志とは裏腹に平安の都へ送られ、運命に逆らえず渋々月に帰らなければならなかったかぐや姫。

満月を見ると今頃どうしているのだろうかと、つい思ってしまう。

 

しかし、吉田由美子は違う。

どこに行こうが何をしようが、自分の意思を貫くのが彼女の生き方だった。

蒼い光に映し出された別れの日と同じ微笑みが、とても幸せそうに見えた。

 

かぐや姫にさえ、まさってしまう不思議な少女。

それが吉田由美子だ。

 

とん平の天津麺

高校入試の前日、私は担任の先生と二人でラーメン屋の暖簾をくぐった。

店の名を『とん平』といった。

 

初めて座ったカウンターからラーメンを頼もうと思っていたら、先生が「天津麺を食べてみないか。旨いから」と薦めてくれた。

 

天津麺が目の前に運ばれてくる。

これはすごい。

 

まだ卵が貴重品だった時代、憧れの丸い卵焼きがラーメンの上にてんこ盛りではないか。

しかも、ただの卵焼きではない。

 

カニがたっぷりとは入っている。

もうそれだけでも衝撃なのに、湯気と一緒に顔に降りかかる初めての匂いがたまらない。

 

喉をごっくんと鳴らして割り箸を持ったまま、じーっとみつめていると先生がビールを飲み干しながら「冷めないうちに食べな」と促す。

 

丼と卵焼きの隙間から麺を一つかみ取り出して口に運ぶ。

それから汁をすすり、待望の卵焼きを一口含む。

 

すべてが初めての経験だ。

あまりの美味しさに中学3年生の五臓六腑が躍った。

 

この時、一瞬目をつぶったような記憶が残っている。

目を見張るほどの美味しさに、思わず目をつぶってしまったのだ。

 

そこから先はよく覚えていない。

もう夢中で食べたに違いなかった。

丼の底が乾くほど汁を飲み干したのだけは覚えている。

 

麺も出汁もカニとネギの入った卵焼きも点数のつけようがない。

星だって5つでは済まない。

満天の星を全部あげても惜しくはなかった。

 

私が高校を受験したのは昭和41年の冬だ。

生まれ育った神恵内村の端から高校のある岩内まで行くには当時、陸の交通機関はなく69トンの定期船『神威丸』が唯一の交通手段だった。

 

数人の受験生を陸の孤島から岩内まで、担任の先生が引率してくれたのだ。

 

19歳で上京してからこれまで衝撃の味を再びの想いを抱き、首都圏を中心に天津麺を食べた店はゆうに100軒を超える。

美味しい店はたくさんあったが、『とん平』を超える感動には出会っていない。

 

平成になって間もないころ、帰省した私は子どもたちにあの時の天津麺を食べさせたいと思い、たずねてみたが岩内町の浮世通り周辺は様変わりしていた。

 

どこを探しても『とん平』はない。

忘れられない初めての天津麺を思い出しながら、喉をごっくんと鳴らして立ち去るよりほかなかった。

 

寂寥

初夏の穏やかな日だった。

目の前には群青色の小樽港がたたずみ、防波堤を超えたその先には青く澄んだ石狩湾が洋々と横たわっている。

 

キラキラと午後の光が水面に踊り、この日は港も海もまぶしいほど輝いていた。

 

私は小樽港勝納ふ頭の端にある、フェリーターミナルの二階レストランで遅い昼食をとっていた。

広い店内には他に誰もいない。

 

窓の右手には否が応でも目に入る、巨大な船が停泊している。

勝納ふ頭に突如、白い丘が出現したのかと思わせるほど大きい。

 

だが、そのたたずまいを支配するのは、気品と優雅と絢爛だ。

豪華客船ダイヤモンドプリンセスだった。

 

船は、もうすぐ出港するらしい。

デッキから身を乗り出すように手を振る乗客が何人も見える。

 

一組のテーブルと椅子が置かれたターミナルの小さな庭園に降り、私は腰を掛けてダイヤモンドプリンセスを眺めた。

 

ふ頭にはフラダンスを踊って見送る女性数人の姿があり、その傍らでカメラを構える人、手を振って乗客に応える若い母親と幼い子、身を寄せ合って談笑するカップル、忙しく動き回る関係者など、陸の人間模様は様々だ。

 

間もなく船上から五色のテープが十本ほど投げられ、「ジャーン、ジャーン」と銅鑼が鳴る。

次の瞬間だった。

天地の間を震わせ「ブオーッ!」と汽笛が響く。

 

その、たった一度の切ない叫びが、私の五感を揺さぶった。

突如として得体のしれない感情に襲われたのだった。

 

家族はおろか、友人も知人も誰一人乗っているわけではないのに、全身を突き抜けていく寂寥。

いつの間にか立ち上がり、動き出した船に近づいていた。

 

出船は別れだ。

見知らぬ人たちを乗せた船が遠ざかって行くのも、また別れに違いない。

私は降って湧いた感傷に、しばし身を任せるしかなかった。

 

ダイヤモンドプリンセスは港の中央で大きく旋回し、赤灯台と白灯台の間をゆっくりと通り抜け外洋へ出た。

船尾から噴き出すように白い波が渦巻くと、速度を増し船影は次第に北へ遠ざかる。

 

パンデミックが世間を震撼させる少し前のことだった。

港町小樽の忘れ得ぬ一日に黄昏が迫っていた。

 

初めての観劇

小豆色の幕がスルスルと上がる。

舞台には出演者一同が正座し両手をつき、こうべを垂れて勢ぞろいしていた。

 

幕が上がり切ると最前列の真ん中に陣取る一人の女優だけが顏を上げ、口上を述べ始めた。

司葉子だ。

茹で卵のような色白の顔には不釣り合いなほど張りのある力強く、よく通る声だった。

 

ところがである。

隣にいた大村崑が突然顔をあげ、素っ頓狂な表情で意味不明な言葉を発しながら、彼女の口上を遮る。

 

客席を「ええっ?」と声にならない戸惑いが支配した。

若い私には何が起こったのかまるで理解できない。

 

「すっません」と関西弁の大村崑は、うなだれて元のようにこうべを垂れた。

司葉子が何事もなかったかの如く後を引きとり、口上の続きを述べる。

 

だが、あろうことか大村崑が再び支離滅裂なセリフをはさむからたまらない。

司葉子がキッと睨みつけ何か言葉を発した。

大村崑は萎れるように顔を伏せる。

 

司葉子の口上は続いたが、大村崑に三度目の異変が起きた。

顔をあげブツブツ何かつぶやきながら、キョロキョロとあたりを見回している。

 

しかし、今度は客席に爆笑が起こった。

ようやく演出であることに気が付いたのだ。

 

笑い声とともに会場は安堵の雰囲気に包まれていく。

三度目で観客がやっと気づくほど、大村崑の演技は卓越していた。

 

不思議なものである。

こうしているうちに舞台と客席には一体感が生まれ、一挙にワクワク感が膨らむのだった。

 

私は完全に舞台での出来事に引き込まれていた。

演出家・花登筺の手法に苦も無くしてやられたのだ。

 

司葉子と大村崑の二人以外はこの間、じっとこうべを垂れたまま微動だにしないのだから、これまたすごいことではないか。

 

あの当時は気づかなかったが今ならわかる。

のっけから役者たちの何という名演技、プロ根性、そして花登筺の虚を突く見事な演出。

 

テレビでは新玉三千代のはまり役だった『細うで繁盛記』の女将を、私の観た舞台では司葉子が演じていた。

 

初めて観た本格的な舞台。

有楽町駅近くだと記憶しているが、劇場の名前すら忘れてしまった。

 

だが、劇の始まりは今も色あせることなく、脳裏に焼き付いている。

ジャニーズもAKBも誰一人出演していなかった、昭和四十年代終わりの舞台だった。

 

初めての観劇:木琴をたたく少女

司葉子と大村崑の絶妙な掛け合いで始まった初めて観る舞台『細うで繁盛記』に、いつの間にか私は夢中になっていた。

 

声を張り上げるようなセリフの言い回し、オーバーとも思えるゼスチャー。

いつも見ているテレビドラマのそれとは明らかに違っていた。

 

始めのうちは違和感を覚えたものだが、役者一人一人の巧みな演技にすっかり魅了されてしまったのだ。

 

涙あり、笑いありの舞台は、新鮮さと驚きを振りまきながら進行する。

劇が深刻な場面に変わったとき、渚に打ち寄せる波のように音楽が私の耳を襲った。

 

音につられて右に視線を移すと、通路を隔てた狭いスペースに楽団が並んでいるのに気づいた。

私は、舞台にかなり近い席の最も通路側に陣取っている。

 

舞台の袖付近から通路に沿って弦楽器、管楽器、打楽器が入り混じって一列に並び、一番端っこに木琴の奏者がいた。

私の席の真横だったが、木琴を打つ手に思わず目を見張った。

 

バチを持つ両手は華奢だが、動きは実に素速くリズミカルだ。

時にはやさしく、時には甲高く、そして時には転がるようなリズムで胸に迫って来る。

 

こんなに多彩できれいな木琴の音色を聞くのは、はじめてだった。

手の動きに見惚れ、奏でる音に聞き惚れてしまった。

 

彼女が手を休めて顔をあげる。

「えっ」、今度は顏に見惚れてしまう。

 

クリクリッと大きな黒く輝く瞳が、何とも印象的だった。

互いに手を伸ばせば届くのではないかと思うほどの距離だから、じっとみつめる私と視線が合う。

 

彼女は戸惑い、はにかんでいる。

咲いたばかりのタンポポが、春のそよ風に揺れるがごとく可憐な、あの表情を今でも忘れられない。

 

しかし、彼女ばかりを見てはいられない。

クライマックスを迎えつつある劇も気になる。

舞台に注目し、木琴の少女に目移りしながら、初めての観劇は俄かに忙しくなったのだった。

 

当時、20歳を過ぎたばかりの私よりさらに若く見えた彼女。

もし、本当に10代の少女だったら、天才だろう。

 

昭和40年代とはいえ、あのように本格的な舞台の楽団員を10代の少女が務めるなんて、冷静に考えたら無理がある。

私の大いなる勘違いだったのかもしれない。

 

だが、思い出なんてたわいないもの。

思い出の中の彼女は、永遠に少女でいい。

 

覚悟の告白

彼女は高校卒業まで北海道の函館で育った。

市内髄一の名門高校から東京の超難関私大へ進み、有名企業へ就職したが数年で職を辞し、絵画モデルになった。

 

横浜在住の彼女から突如LINE電話が入ったのは、2023年7月のことだった。

電話の彼女は落ち着いている。

きれいな日本語とよく通る声で淡々と話した。

 

「ずっと考えていたのですが、司法試験に挑戦することに決めました」

「司法試験?法律を学んだことがあるの?」

「大学は法学部だったので、それなりに法律の勉強はしています」

 

その後、話は急展開する。

「私は虐待されて育ちました」

 

幼少から現在まで、彼女はさぞかし順風満帆に過ごしてきたのだろうと勝手に想像していたが、その一言に思わず絶句した。

 

決して感情を高ぶらせることなく過酷だった子ども時代の家庭環境を、淡々と話す彼女の一言ひと言が私の胸に突き刺さる。

 

あの素直な横顔に信じがたい過去が隠されていたなんて、だれが想像できよう。

 

「だから、恋愛をしてもうまくいかないのです」

この言葉に若い彼女の苦悩が凝縮されている。

 

彼女との出会いは2020年3月だった。

東京で開催されたセミナーに出席したとき、たまたま昼食のテーブルで一緒になったのだ。

 

同席した4人はすぐに打ち解け、ごく自然にLINE交換することになった。

その後、コロナが猛威を振るう中で、LINEでのやり取りは細々と続いていた。

 

電話で聞く限り、売れっ子絵画モデルとなった彼女の収入はかなりのものらしい。

金銭的には何一つ不自由ない生活を送っているのだから、自分を苦しめた家族と絶縁状態になるのは当然の成り行きだろう。

 

だが、無性に誰かと話したい思いに駆られるのが人間だ。

密かに胸にしまっておいた思いを吐露したい。

自分の存在を人生を誰かに認めてもらいたい。

 

そして、自分の決意を語る相手が欲しい。

そんな欲求は人としてごく自然なことだろう。

 

恋愛がうまくいかないから恋人はいない。

だから辛かった過去と決別し、新たな未来への挑戦を聞いてもらうために、彼女が歳も距離も遠く離れた私を選んだのは不思議でも何でもない。

 

若き彼女にとって、覚悟の告白だといえよう。

強い決意がにじむ彼女の言葉を肯定することが私の役目だと思い、惜しみない励ましの言葉を贈った。

 

今はただ、彼女が選択した狭き門の突破を静かに願うばかりだ。

何年かかるだろうか。

長い道のりになるだろうけれど、彼女の挑戦に心から拍手を送りたい。

 

なお、この記事にはプライバシーの保護上、ほんの少しだけ脚色を加えていることをご承知ください。

 

ビックリ仰天!彼女の過去

「Mさん、どうぞ先に打ってください」

「え、先に打っていいですか?」

 

そう言って彼女は、白いマークのレギュラーティーでアドレスをとった。

シュッと一度だけ素振りをして、パッシーンと小気味よく打っていく。

白球は晴れ渡った青い空に弧を描いた後、緑のフェアウェイを200ヤード近くまで転がる。

 

50ヤードほど前方にあるレディースティを使用するだろうと思い、先に打ってくださいと気をつかったつもりだったけれど、まったく余計なお世話だった。

並の男と遜色のない飛距離だ。

 

思わず「ナイスショット!」と声を張り上げたが、この時はまだ彼女の「えっ!」と驚く過去など知る由もなかった。

 

この日、私はゴルフコンペに参加していた。

場所は栃木県のプレステージカントリークラブ。

男子プロのトーナメントが何度も開催されたチャンピオンコースだ。

 

時は平成元年10月下旬。

芝生はまだ青々としているし、早朝なら涼を通り越して肌寒ささえ感じる、最高のゴルフシーズンだ。

 

彼女は会場のプレステージCCを所有し、コンペを主催した会社の常務取締役だった。

私より少し若い30代半ばだろうか。

 

並の美形ではない。

172㎝の私と並んでも遜色のないスラリとした長身のシルエットが緑の芝生によく映えた。

 

動作は実にテキパキとしていたが、最も印象に残っているのは姿勢の良さだ。

背筋がピーンと伸び、立ち居振る舞いはまるでランウエーを行くファッションモデルを彷彿させた。

 

ハーフラウンドを終えて昼食のテーブルに着く。

彼女のコンシェルジュぶりが、これまた素晴らしい。

 

レストランのことは隅々まで把握している。

案内はコース設計者から豪華絢爛なクラブハウスの構造にまで及んだ。

見事な見識と博識と言えよう。

 

この日のもう一人の同伴者は、あるゴルフ業界団体の事務局長だった。

弁舌さわやかでジョーク好きの愛すべき男だ。

 

その彼が圧倒されたのか、ほぼ口を開かないほど彼女のトークが素晴らしかったのだ。

決してしゃべり過ぎの印象は与えないし、こちらの質問にも的確に答える。

才色兼備を絵に描いたような女性だ。

 

彼女はゴルフ業界では知る人ぞ知る存在だった。

有名航空会社のスチュワーデス(当時はそう呼んでいた)から、ゴルフ場の支配人に転身した異色の経歴が話題になり、メディアによく登場した。

 

そして、間もなく別のゴルフ場運営会社にヘッドハンティングされる。

移籍した会社で常務に抜擢されたのだ。

だから私は彼女を知っていたが、対面するのは初めてだった。

 

このコンペをきっかけに、彼女の会社からパーティーやイベントの案内状が時々届くようになる。

パーティーでは二人並んでワイングラスを傾けることもあったが、話題はいつも仕事関係ばかりだ。

 

やがてバブル経済が崩壊し、疎遠になった。

平成10年前後には、彼女の会社が倒産したことをニュースで知る。

 

さらに時は流れ、平成20年ころのことだったと思う。

事務所に不動産会社の営業マンK君が訪ねてきた。

 

その日は雑談に花が咲き、彼がM女史の部下だったことを知った。

「Mさんには、とてもお世話になったものです」

 

そして、彼は予想もしなかったことを口にした。

「あの方は、ミスユニバースの日本代表でした」

 

一緒に懇談していた若い社員が、すぐにネットを検索する。

良家の御曹司や令嬢が通うことで有名な大学の学生だった時に、日本代表としてプエルトリコで開催されたミスユニバース世界大会に出場していたのだった。

 

なんと、ビックリ仰天の過去ではないか。

年齢も私と同じだった。

 

あの、美しい姿勢とシルエット、そして一つひとつのしぐさが昨日のことのように脳裏によみがえる。

「なるほど、ミスユニバース日本代表か。どおりで」と、一人合点がいったのだった。

 

 

潮太鼓と男たちの望郷

おたる潮まつりに欠かせないのが『潮太鼓』だ。

潮ねりこみが祭りの華なら、潮太鼓は怒涛だ。

はるか水平線から迫り来る豊饒の海、日本海を見事なバチさばきで再現する。

 

その立ち上がりは穏やかな凪。

ドーン、ドーンと音の波は次第に強く、雄々しく地響きのように押し寄せ、やがて天も裂けよとばかりに周囲を圧倒する。

 

聞きほれている間は邪念さえ吹き飛んでしまう。

怒涛が海を浄化するがごとく、潮太鼓は心を洗い流して静かに引いていく。

 

『おたる潮まつり50回記念誌』によると、潮太鼓は石川県がルーツとされている。 

潮まつりの前身ともいうべき『みなと小樽商工観光まつり』が開催されていた昭和三十年代の事だった。

 

本格的な太鼓隊を編成して、祭りをもっと盛り上げたいと考えていた商工会議所の役員がある晩、竜宮神社を訪れる。

社殿から聴こえてきたのは、太鼓の音だった。

 

トトトーン、トントン、ドドドーン、ドンドン。

リズミカルだが満月の夜空に届けとばかりの迫力があった。

 

音色は閃光のように役員のつま先から、脳天までを貫いていく。

役員はすっかりほれ込んでしまった。

 

太鼓を打っているのは、ねじり鉢巻の男三人だった。

ほろ酔い加減も加わり顔が紅潮し、なんと気持ちよさそうな表情だろう。

 

三人は石川県から出稼ぎに来て、小樽に居ついたのだった。

彼らが生まれた漁村に、古くから伝わる打ち方なのだという。

 

役員は、すぐさま伝統の技を小樽の若者に伝授するよう頼み込む。

彼らは快く引き受ける。

潮太鼓が芽吹いた瞬間だった。

 

時は過ぎ、昭和42年の夏、第一回『おたる潮まつり』が開催される。

関係者たちの思いと努力が実を結び、これを機に『潮太鼓保存会』が結成されたのだった。

 

 

明治から戦前にかけてニシン漁に沸いた小樽の忍路や祝津には、北陸地方から大勢の男たちが出稼ぎにやって来た。

 

ヤン衆と呼ばれる人々だ。

彼らが故郷に思いをはせて叩いていた太鼓こそが、潮太鼓のルーツだった。

 

時には自分を育んだ忘れ難き故郷の山河を思い、ある者は胸にしまい込んだ忘れ得ぬ人の面影をしのびつつ、目頭を熱くしながらバチを打ち続けたのだろう。

 

はるばる石川県の漁村から運ばれた潮太鼓の種子は、こうして北前船の時代から密かに芽吹くチャンスを待っていたのだった。

 

ヤン衆の中には、自らの意志で小樽に残った人々がいる。

一方で故郷へ帰りたかったけれど、諸々の事情を抱えて願いが叶わなかった者も多くいたことだろう。

 

叶わぬ帰郷。

潮太鼓を聞くたびに、そんな男たちの望郷が私の胸をゆするのだ。

 

例年、多くの子どもたちが参加する潮まつりは、夏休みが始まったばかりの七月最終週の金・土・日に行われる。

 

先人たちの想いを知ってか知らずか、大人たちに混じって潮太鼓を打つ子どもたちの目は真剣そのものだ。

阿吽

平成2年7月初旬の日曜日、私は小金井カントリー俱楽部のレストランにいた。

ゴルフ会員権が日本で一番高いことで有名なゴルフ場だ。

 

この日、一緒にプレーした四人のうち、貸しビル業を営むオーナー社長だけが倶楽部の会員だった。

一人は中堅証券会社の社長で、もう一人は生命保険会社の常務だ。

 

4人の中で唯一30代だった私は、どう見たってはなたれ小僧に過ぎない。

 

東京は梅雨の真っ只中にあり、この日も前日からの雨が降り続いていた。

雨のゴルフはつまらない。

 

苦痛ばかりで、大自然相手の解放感や爽快感がまるでない。

何とか前半のハーフラウンドを終えて、昼食のテーブルに着いたばかりだった。

 

例によってビールで乾杯する。

「どうだい千葉さん、午後もやるかい?」

 

会員の社長が、出身地の北海道訛りを交えながら言う。

若輩の私に後半のハーフランドをプレーするかしないかを決める権限などあるわけがない。

 

「雨がやみそうもないから、やめましょう」の言葉を期待しての問いかけだった。

 

この社長特有の言い回しだ。

次のセリフも予想通りだった。

 

「一番若くて元気な千葉さんがやめようと言ってるから、止め、止め」

 

決して大雨とは言えない状況だった。

しかも日本を代表する伝統の名門だ。

 

会員はいつでも来れるが、ビジターはそう簡単にプレーできない格式の高いゴルフ場だった。

 

ワンマン社長といえども、それなりの地位にあるビジター二人には気を使わなければならない。

ハーフラウンドで切り上げるのは勇気がいるのだ。

 

ここで私が

「この程度の雨ですから、あとハーフ行きましょう」

などと言ったら、社長が頭に描くシナリオは成立しない。

 

私はこの手のタイプには慣れているし、二人のお偉いさんとは特に利害関係がないからワンマン親爺の気持ちを斟酌するには何の抵抗もなかったのだ。

 

名門ゴルフ場はまた、社交場の顔を持っている。

レストランでの和気あいあいとした小宴会は大歓迎されるのだ。

 

真昼間から、4人で高級ワインを5本も空けた記憶が残っている。

社長の描いたシナリオ通りに演じた私には、ワインを遠慮なく空ける権利があったのだ。

 

プレー代も含めた4人すべての勘定は、気分を良くしたワンマン社長のおごりになった。

 

阿吽の呼吸。

これもまた、日本の古き良き伝統だろう。

時は、バブル経済の絶頂期にあった。

 

小樽潮まつりの「ねりこみ」を完成させた、たった一言の威力

小樽市立図書館の二階に案内され、係の人が施錠された部屋から分厚い本を持ってきてくれた。

「貸し出しはできませんので、こちらで読んでください」。

 

表題が「おたる潮まつり50回記念誌」だったと記憶している。

ブログに書こうと思い、『潮まつり』について調べていた時のことだった。

 

祭りが企画された経緯から『潮音頭』の作詞・作曲について、さらには三波春夫のレコーディングにこぎつけるまでの苦労話やエピソードがドラマチックに描かれている。

 

目を奪われたのは『ねりこみ』についての記述だった。

『ねりこみ』とは、潮まつりで踊る振り付けのことだ。

 

国民的歌手の三波春夫が歌ったレコードも出来上がり、踊りの振り付けだけが残されていた。

祭りの実行委員会は、日本舞踊の各流派に共同で『ねりこみ』を創作するよう依頼する。

 

一つの流派だけを指名すれば、他流派の反発は必至だ。

後々、しこりが残らないように苦肉の策だった。

 

気位の高い小樽花柳界に対しては、危惧があった。

北海道一の商業都市を謳歌した頃の小樽には、500人もの芸者がいたという。

 

その芸者をはじめ、飛ぶ鳥を落とす勢いを誇った大富豪の夫人やお嬢様たちを弟子に抱えていたのだから、師匠たちのプライドたるや想像を絶するものだった。

 

流派は同じでも師匠が違えば、弟子たちは口を利くのも許されない異様な世界だったと伝えられている。

 

これでは短期間で一つにまとまるのは至難の技だろう。誰もがそう危惧したのだ。

日程はすでに決まっていて、祭り開催までの時間は迫っている。関係者の不安は募った。

 

花柳流、藤間流、創作舞踊など各派が勢ぞろいした第一回目の会合は、そうした波乱含みの中で開催された。

会場に重い空気が流れる。流れに逆らい、静かだが凛とした声が響く。

 

「小樽のためなら、どんなことでも協力しなさい。お世話になった小樽に恩返しするために、命も投げ出すつもりでやり遂げなさい」

 

臨席していた最古参の師匠が愛弟子たちに放った一言は、瞬時に場の雰囲気を変えたのだ。素晴らしい威力だった。

 

一芸を極めた人の誠から発せられた一言だろう。

この言葉に異議を唱える人間など、いるはずもない。

 

心配は杞憂だった。

『ねりこみ』は間もなく完成し、祭りの本番まで十分稽古を積むことができたのだった。

忘れられない神々しさと哀愁


なんと美しい栗毛だろう。18歳の少年は栗毛の娘に一目惚れしてしまった。

 

少年は毎朝、顔を合わせるとポンポンと背中を二度叩いてやる。

それを合図に彼女は元気いっぱい朝の光へ駆け出していく。

 

夕方には愛おしい栗毛の頭を撫でてやるのが日課になっていた。

時には人目もはばからず思いっきり抱きしめてやることもあったけれど、周囲の大人たちはニコニコやさしく見守ってくれたのだった。

 

一年前にアメリカからやってきたという彼女は、まばゆいほど健康的な四肢を伸び伸びさせて芝の上を時にはゆったり、時には疾走して一日を無邪気に楽しんだ。

 

無邪気ながらも頭のてっぺんからつま先まで、気品をまとった彼女の姿を見るたびに少年は胸がときめくのだった。

 

晩秋の日のことだった。

北海道にはいつ初雪が舞い降りても不思議のない季節だ。

けれど、その日は小春日和で、遠く澄み渡った西の空に雲がポツンと浮かんでいた。

 

牧場の片隅にたたずむ彼女は、その西の空を見つめている。

やわらかな日差しを浴びて栗毛はいつにも増して輝いていた。

 

はるかアメリカの故郷テキサスへ思いをはせているのだろうか。

神々しい後ろ姿にどこか哀愁が見え隠れしていたのだった。

 

 

それから二ヶ月ほどして日高の牧場も一面雪に覆われたころ、突然、別れがやってきた。

永遠に続く出会いなどあるわけがない。

別れは世の常だ。

 

少年は牧場を去らなければならなかった。

大好きな彼女のもとを去ってまでも、追いかけなければならない夢があったのだ。

 

けれども、晩秋に見たあのワンシーンは永遠に少年の胸に刻まれた。

決して忘れることはないだろう。

 

彼女の名は『エクセレント』。

当時6歳のサラブレッドだった。

ゴム長の青春

着いたのは2月の上野駅だった。前日、雪の札幌駅から特急列車に乗り、函館駅へ到着。

 

午後の青函連絡船で一路、青森港を目指したのだが津軽海峡の情景は何一つ覚えていない。

実はもう記憶さえとぎれとぎれの、はるか昔のことなのだ。

 

覚えているのは、札幌の倍近くもあろうかと思われた青森駅周辺の豪雪と、東北本線の混雑だ。

上りの夜行列車は混沌と退屈と中途半端な眠気を乗せて長い闇をひた走る。

上野駅に降り立った時はすでに夜が明け切っていた。

 

改札を出て、記念すべき内地での第一歩を踏み出したのだが、あれ、あれと目を疑った。

真冬なのに雪がない。しかもゴム長を履いているのは自分一人だ。

雪のない東京のど真ん中でたった一人ゴム長とは。

 

前年の3月に高校を卒業したばかりの19歳にとっては、顔から火が出る思いだった。

だが、今更どうしようもない。恥を忍んで歩くより仕方なかった。

 

国鉄上野駅から少し歩いて、京成電鉄などを乗り継ぎ、最終目的地は千葉県の山奥だった。

どんな仕事が待っているのか、この時点では知らされていない。

 

というよりも、私を誘った連中も誰一人詳しく知らないのだから、のんきというべきか無鉄砲と言うべきなのか。

今思えばそんな無謀さえも、どうにかなった時代だったのだ。

 

私はどうしても大学へ行きたくて、お金を貯めようと郵便局を半年ほどで辞めてしまった。

もっと手っ取り早く稼ぎたいと思ったからだ。

 

当時、最も賃金の高い札幌の地下鉄工事現場で働いていたのだが、そこで知り合った連中から声をかけられたのだ。

 

「東京へ行くと日当2,500円もらえるぞ」

「よし、行く」

 

札幌冬季オリンピックを控えて、急ピッチで進む地下鉄工事は北海道でダントツの日当2,000円だったが、それより500円も高いという話に飛びついたのだ。

 

千葉県の五井駅に着くと迎えが来ていた。

車に揺られて20分も走っただろうか。おんぼろ車は真新しい飯場の前で止まった。

 

真冬のプレハブ小屋から再スタートした仕事は、ゴルフ場予定地で樹木を伐採することだった。

もう、ゴム長も恥ずかしくなかった。

阪神・淡路大震災と取り立て屋K

テレビのスイッチを入れると黒煙が立ち上る神戸の街が映っていた。煙は一カ所だけではない。

画面が変わると、倒壊した多くの建物が無残な姿をさらしていた。

 

ただ事ではない。

阪神・淡路大震災の一報をテレビニュースで知らされたのは、1995年1月17日の早朝だった。

 

神戸と言えば、いやでも思い出さざるを得ない男がいた。

取り立て屋のKだ。この男が元銀行員だったと言うから驚く。

どこからどう見ても銀行員のイメージではない。

 

ワイシャツの第一ボタンをはずして、ネクタイはユルユル。

おまけに頭は丸刈りで、歪んだ口元がさらに迫力を加えている。

 

光のない鋭い目つきと出っ歯気味の口から吐き出す言葉には、人情のかけらもない。

 

他社の保証人になっていたため、私の会社はKが勤める会社に2千万円の債務を背負うことになった。

その返済方法を取り決める窓口になったのがKだ。

 

「担保はない」

「じゃ、手形を切れ」

「手形は切らない主義だ」

 

Kは実にしつこい取り立て屋だった。

 

「社長、1千9百万円にまけてやるさかい、38万円額面の小切手を50枚切りいや」

「これが最後や、もう妥協できへんで」

 

こんな時の関西弁ほど腹立たしいものはない。私は根負けした。

毎月38万円ずつ返済しなければならなくなったのだ。

 

バブル崩壊後、規模を大幅に縮小した私の会社にとっては、実に重い金額だった。

 

神戸が大震災に襲われたのは、それから数か月後のことだ。

震災の次の日、私はKの会社へ電話をしたが呼び出し音だけ鳴って応答はない。

 

その次の日も電話をしたが、やはり誰も出なかった。

 

電話の呼び出し音を聞きながら「あいつの会社なんて、潰れてなくなってしまえばいいのに・・・」との思いが心のどこかにあったのは否定しない。

 

だが、三回目も電話がつながらないと、心境は全く変わっていた。

「おい、おい、本当にダメになってしまったのかよ。まさかKやあの社長の身に・・・」

 

毎日、電話をかけ続けた。8日目か9日目くらいだった。

「もしもし」ようやくつながった。

しかも電話に出たのはK本人だ。

 

短い会話で終わったが、Kの声は明らかに沈んでいた。

それから1月ほどして、Kが予告もなしに会社へ現れたのだ。

帰るとき彼をエレベータまで送った。

 

「ワシみたいな奴でも心配して電話くれる人がおるんやな」

彼はそう言い残してエレベータに乗り込んだ。

 

それから2週間ほどして彼はまた会社へやってきた。

応接へ案内するなり、テーブルの上に紙袋を放り投げるではないか。

袋の中身はこちらが渡した小切手の束だった。

 

私は小学生の時に聞いた祖母の言葉を思いだした。

「心配ないよ。止まない雨は降ったためしがないから」

「山のあなた」と「見果てぬ夢」

これまでいくつの詩を読んだことだろう。数々の作品に心動かされた一方で、多くの詩を忘れてしまった。

 

だが、生涯忘れることはないだろうと思うのが、カールブッセ作で上田敏の訳が秀逸な『山のあなた』だ。

 

 山のあなたの 空遠く 

「幸」住むと 人のいふ

 噫、われひとゝ 尋めゆきて

 涙さしぐみ かへりきぬ

 山のあなたに なほ遠く

「幸」住むと 人のいふ

 

この詩と出会ったのは中学校の国語の教科書だった。

感動というよりは強い衝撃に襲われた記憶が残っている。

 

あの当時の私には「幸(さいわい)」の概念などまるでなかった。

山の彼方に求めていたのは、ただただ「夢」だけだった。

 

「いつか自分は、この田舎から遠くの町へ出ていくだろう。」その思いと「山のあなた」が重なった衝撃だったと思う。

 

だから、中学生の私には前半の二行しか頭に入ってこなかったのだ。

「自分の夢は山の彼方の空遠くにある」

夢破れた状況など、想像すらできない年齢だった。

 

あれから、もう何十年も夢を追い続けている。

捕まえた小さな夢もあるし、破れた夢は数知れない。今は、詩の後半二行が頭から離れない。

 

 山のあなたに なお遠く

「幸」住むと 人のいふ

 

山の果てまで追いかけた夢に破れても、さらにもう一つの山の彼方へ思いをはせる。

 

憧れと真の幸せは違う。山の向こうに見える幸いは幻に過ぎない。

本当の幸せは身近な足元にある。

 

カールブッセや上田敏はそう伝えたかったのだと思う。

それでもなお、私は山の向こうに夢を見るのだ。

 

夢とチャンスは表裏一体だ。夢がなければチャンスもこない。

死ぬまで「見果てぬ夢」を追い続けることができたなら、これほど幸せな人生はないだろう。

懐かしいたった二度の会話

元米倉ボクシングジムの会長だった米倉健司さんが亡くなられた。

88歳だったというから天寿を全うされたのだろう。

 

私は学生時代、プロボクサーを目指して米倉ジムで練習に励んだことがあった。

当時は柴田国昭さんやガッツ石松さんが立て続けに世界チャンピオンになるなど、米倉ジムの第一次黄金時代ともいうべき時期だった。

 

ジムの広さは小学校の小さめの体育館ほどだったが、午後6時を回ると多くの練習生が集まり、その凄まじい迫力は外の通りまで伝わったものだ。

 

私はその混雑を避け、授業をさぼって昼の時間帯を選んだ。

昼のジムは閑散としていたから、夜では経験できない濃密な練習時間を過ごすことができたのだった。

 

入門したばかりでも、トレーナーが個別に声をかけてくれたし、時には質問にも答えてくれた。

世界チャンピオンの練習も間近で見ることができて「おお、すげえ」と驚きと興奮の中で練習した記憶が残っている。

 

米倉会長も時々顔を出して、ジムをゆっくりと歩き回っていたが、ある日、その会長に声をかけられたのだった。

 

 

壁際で一人シャドーボクシングをしていると「君はパンチングボールを叩ける」と聞いてきた。

私のすぐ横にはパンチングボールがぶら下がっている。

 

「いえ、できません。」

「これ、難しいんだよなあ、8の字に叩くらしいけど、僕は今でもできないんだ」

そう言いながら会長は、ぎこちなくパンチングボールを軽くたたいた。

 

世界チャンピオンの座には届かなかったとはいえ、米倉会長は日本チャンピオンと東洋チャンピオンに輝いた男だ。

それにしては何と正直な人だろう。

 

他の練習生と話す会長の姿など見たことがないから、私はびっくりした。

雲の上でも歩くような感覚にとらわれたことを昨日のことのように思い出さずにはいられない。

 

それから数日後、また会長が近づいてきた。

「君はお尻が小さいから、減量には苦労しないタイプかな。これだけ身長があってフェザー級で出来たら、日本のボクサーでは貴重だな」

 

やはりこの時もニコニコと、穏やかに話かけられたのだった。

 

鍛え上げた人間が一対一で「生き物の本能」をむき出しにして戦うのがボクシングだ。

現役を引退したとはいえ、その百戦錬磨の強者がなぜあれほど穏やかなのか。

 

私はその直後、プロテストを目前にしてボクシングをやめてしまった。

だからボクシングにはそれほどの思い出はない。

 

だが、あの二度の会話だけは米倉会長の深い人間性に触れた思いがして、いつまでも忘れられないのだ。

合掌

 

なぜ、ボクシングを途中でやめたのかって?

それについては、いずれ近いうちに。

あの大波はどうして、たった一度だけ押し寄せたのか?

私は小学生の頃から素潜りが得意だった。

漁師だった父がアワビ採り専用のカギを用意してくれたのは、5年生の頃だったと思う。

 

あの頃、私が育った地域では、男の子であれば潜ってアワビやウニを採るのは当たり前だったが、専用のカギを持っている小学生は珍しかった。

 

だから私にとって、カギは水中眼鏡、冬のスキー板と並び三種の神器と言えるほど大事な宝物だったのだ。

 

海に潜り岩にくっついたアワビをはがす瞬間のスリルは、子どもの冒険心を十分に満足させてくれた。

 

だが、冒険心は気づかぬうちにエスカレートする。

「ああ、俺はこのまま死んでしまうのだろうか」

 

そんな危機に見舞われたのは、5年生の夏休みも終わりに近づいたころだった。

岩の隙間から大ものが見える。これまで採ったどのアワビよりも大きい。

 

隙間の奥は広いが、入口は狭い。

だがこの大ものは魅力たっぷりだった。何も考えずにカギを持つ手を突っ込む。

岩肌でこぶしを擦ったが痛みを感じる暇はない。

 

アワビは苦も無くはがれてカギに引っ掛かる。

だが、次の瞬間思わぬ事態に襲われたのだった。

 

 

手が抜けない。思いっきり引っ張っても隙間から抜けないのだった。

父からもらった宝のカギを断腸の思いで放したが、やはり抜けない。

 

もがいても、もがいても手首がこすれるだけで時間は刻一刻と過ぎていく。

呼吸が苦しい。

意識も遠のいていく。

 

「俺は、このまま死ぬのだろうか?」

あきらめにも似た心境に陥った次の瞬間だった。

 

身体がフワッと浮く感覚に襲われたのだ。

水中でバック宙返りを打ったのだった。

両脚が誰かに持ち上げられたように身体が後ろ向きにくるりと一回転した。

 

その勢いで、岩に挟まれた手は抜けていた。

水上に顔を出し思いっきり息を吸ったのだが、何が起きたのか全く理解できない。

大波が来たのだろうかと、あたりを見回したが海は相変わらずゆったりと横たえている。

 

呼吸を整え、大事なカギを探しに潜るとすぐに見つかった。

カギは指先でつまみ出せたのだが、大ものクンがすぐそこでモゾモゾしているのが見えた。

 

全く懲りない子どもだった。執念だったかもしれない。

「おっ、これなら採れる」

 

アワビは吸盤のように固く吸い付いたところをはがされると、すぐには元のように吸い付いたり、速く逃げることはできない。

 

一度カギで引き寄せられたアワビは4、50㎝あった柄の長さでけで、今度は十分届いたのだ。

 

海は平然と穏やかだったが、大波が押し寄せたこと以外に身体が回転した理由は考えられない。

子どもとはいえ、海中の両脚を持ち上げるのはかなり大きなうねりが必要だ。

 

「もしも、あの波が来なかったら」と、あの時は考えた。

だが、今は違う。

「どうして、あの時に限って大きな波が、たった一度だけ押し寄せたのか?」と考えるのだ。

イワナは何匹釣れた?

中学二年のゴールデンウィークだった。

隣の集落から三人の同級生がやってきて、近くの渓流へイワナ釣りに出かけることになった。

 

「イワナがごっそり釣れたら、どうしよう」「熊が出るかもなあ」。

三十分ほどの道のりをたわいもないことを言いながら歩くのが、たまらなく楽しい。

だが、この時はまだ、あんな思いをするなんて想像もしていなかった。

 

渓流に糸を垂らしてから、もう一時間はとっくに過ぎていたが、誰の竿にも全くあたりがない。

石の上を飛び回って、あっちこっち場所を移動するが、何の手応えもなく時間だけが虚しく過ぎていく。

 

もう少し上流へ行こうと、釣り針を上げた時だった。

近くの藪がガサガサと大きな音を立てた。息を飲んで振り向く。

他の三人も身を固めて藪を凝視する。

 

次の瞬間だった。

バサバサと藪が大きく揺れる。勢いよく飛び出してきたのは大型の鳥二羽だった。

「なんだ、鳥かよ」。

 

誰も口にしないが、四人の想像した動物は同じはずだ。

安堵の空気が流れる。

 

それにしても、イワナは釣れない。

気配さえ感じないのだ。

 

二時間もたつと他は誰も糸を垂らしていなかった。

笹舟を作って水に浮かべたり、向こう岸に石を投げたりして、それぞれ勝手気ままに遊んでいる。

 

だが、自分は釣りをやめられない。

隣の集落からわざわざ友人がやってきたのだ。

いわば自分はホスト役だった。

 

せめて四匹釣って、一人一匹ずつ分けたい。

いや、自分の分はいらないからせめて三匹だけでも。

それがついには「一匹だけでも釣れてくれー」と悲痛な思いになっていた。

 

時間は容赦なく過ぎて「もう帰ろう」の声が上がる。

あきらめざるを得なかった。

 

ただの一匹も釣れないなんて。

ああ、世の中にこんな無情があっていいものか。

世界中の悲しみを一人で背負ったような気分だった。

 

ホストの面目丸つぶれだが、自然には勝てない。

悲しみに打ちひしがれながら、竿を畳んだ。

 

「ああ楽しかった」

「面白かった」

「熊に会えずちょっと残念」

三人は晴れ晴れと笑う。

 

その言葉を聞いたとたん悲しみなんて、一瞬にして五月の高い空の彼方へ吹き飛んで行ってしまった。

 

のどかな少年時代だった。

イワナを一匹も釣れなかった事が、人生最大の悲しみに思えたのだから。

 

NHKニュースで「今日から飛び石連休が始まりました」と伝える時代だった。

果たして駅名は?

全く頼りない記憶力だ

昭和47年か48年だったと思う。

 

小海線に乗ったことがあった。

山梨県小渕沢駅から長野県小諸駅まで八ヶ岳の麓を約79㎞にわたってのんびりと行くローカル線だ。

 

新聞配達をしていた学生時代は、春分の日が待ち遠しかった。

当日の夕刊と次の日の朝刊が休みだから、ほぼ毎年1泊旅行に出かけたものだ。

 

その年は友人と二人で、長野県の松本城に行くことに決めていた。

吉祥寺駅で待ち合わせて中央線で八王子まで行き、そこから中央本線に乗り換えて松本まで行く計画だったように記憶している。

 

計画といっても決めているのは目的地と乗る電車くらいで、いつものように宿の予約もしていない。中央本線にさえ乗れば松本にはたどり着くだろうという気楽な旅だ。

 

ところが、甲府駅に着いたあたりから計画はあやしくなった。

思ったよりも中央本線の各駅停車はのんびりと走っていたのだった。

 

「このままだと松本に着くのはかなり遅くなる。

夜になってから宿を探すのは大変だ」と友人が言う。

 

そこで、小渕沢駅で小海線に乗り換えて小諸に向かうことにした。

しかし、小海線で千メートル超の高原を走るのは楽しかったが、小諸もまた遠かったのだ。

 

日が落ちて八ヶ岳も見えなくなり途中下車することにした。

このとき降り立った駅名はずーっと『海ノ口温泉駅』だと思っていた。

 

だが、ふと思い出してネットで調べてみたら『佐久海ノ口駅』になっているではないか。

ウイキペディアで調べても駅名が変更になったとは書かれていない。

 

駅が所在する南牧村役場に問い合わせたけれども、若い男が電話の向こうで「駅名が変わったなんて聞いたことありません」とにべもない。

 

JRのお嬢さんは電話を保留にしてかなり時間をかけて調べてくれたが、やはり駅名の変更は確認できないとのことであった。

記憶なんて頼りないものだ。

 

駅名はおぼつかないが、翌朝、下駄で踏みしめた名残雪と、前夜、宿を丁寧に教えてくれた駅員さんの親切な笑顔だけは、記憶から消えることはない。

喜怒哀楽

月に帰る直前、かぐや姫はこのように言い残している。

「あの都の人は、とても清らかで美しく、老いることもないのです。もの思いもありませぬ。」

 

あの都とは、自分が帰るべき月の世界だ。

かぐや姫は、地球上の人間が渇望してやまない不老不死の世界からやって来て、そして帰って行くのだ。

 

だが、そのあとに続く言葉が、あまりにも衝撃的ではないか。

「そのような所へ行くことは、嬉しいとも存じませぬ」

 

彼女は人々が憧れてやまない理想郷に、実は戻りたくなかったのだった。

なぜだろう。

 

不老不死だから病気も生活苦もなく、死の恐怖もない。

これほど幸せないことはないだろうと考えがちだ。

 

だが待てよ。

不老不死はまた、不変の世界でもある。

昨日も今日も、明日も明後日も未来永劫に事件も事故も起こらない安穏で平和な日々。

 

美の極致でもあるから彼も彼女も、あの人もこの人もみんなが清らかで美しく、在るものすべては清浄で穢れなく、あらゆることが平等なのだ。

 

不老不死は苦のない世界であらねばならない。

苦によって死を願う者がいたら、不死の意味がなくなってしまう。

 

故に、そこで暮らす人々に一切の違いや差別は、存在しない。

他人との優劣こそが、苦の根源だから。

 

能力にも所有物にも差はないのだから比較のしようがないので、優越感も劣等感もなく、必然として嫉妬や羨望の感情もない。

 

だから「・・・もの思いもありませぬ」となる。

つまり、喜びや悲しみの感情が生まれる必然性はなく、すべて満たされているから思考そのものが必要ない、ということだろう。

 

いわば『寂』の世界だ。

平安の都で、かぐや姫が大勢の男たちからチヤホヤされたようなことも、その世界ではありえないのだ。

 

表現できないほどの美貌を誇っていても、どれほど光り輝いていようとも称賛されることはなく、誰からも羨望の眼差しを向けられることのない世界。

 

帰るのを渋った彼女の気持ちがわかる。

一度味わった喜びや楽しさの感情を忘れることができないのは当然だろう。

 

竹取物語には、かぐや姫が地球へ来たことも月に帰ったことも、自分の意志ではなかったと書かれている。

 

「ならば今度は自らの意志でこの地上に戻って来てください」と、私は月に向かって呼びかけるのだ。

 

彼女には生老病死の混沌たるこの世界で、『喜怒哀楽』を心行くまで味わって欲しいと思うから。

「君はボクシングの他にやりたいことがあるか?」「はい、あります」

二人は寿司屋のカウンターに並んで座っていた。

30歳半ばの男が言った。

 

「君はボクシング以外、他に何かやりたいことがある?」

「はい、あります」

 

答えたのは21歳の青年だ。

男は少し間をおいて言う。

 

「じゃあ、ボクシングはやめた方がいい。僕も今日から一切教えない」

青年は一瞬、戸惑った。

 

だが、そのあとに男が言い放った言葉に納得した様子で、はっきりとした口調で答える。

「やめます。」

 

ボクシングに関する二人の会話は、これで完全に終わった。

その後も二人の交流は続いたが、両者ともにボクシングの話題は一切口にしなかったのだ。

 

当時21歳の学生だった私は、プロボクサーを目指して米倉ジムに入門した。

たまに顔を出すスナックの常連だったのが、元プロボクサーの高宮さんだ。

 

マスターから紹介されたその日のうちに薄暗い路地に連れ出され、シャドーボクシングをしてみろというほどボクシングには熱い人だった。

 

その後も、店で会うたびに路地裏で指導を受けた。

スナックと軒を並べる小料理屋の女将が「まるで”あしたのジョー”ね」と顔をのぞかせて笑う。

 

いよいよプロテストが間近に迫ったある日、高宮さんから連絡がありスナックへ行くと常連が顔をそろえていた。

 

「この身長でフェザー級とは、本当に楽しみだ」

小柄な高宮さんは自分のことのように誇らしげな表情で、常連客に言う。

まったく同じセリフをつい最近、米倉ジムの会長に言われたことがあり、私も内心得意だった。

 

「ちょっと二人だけで食事に行こう」

直後に、そう誘われて寿司屋の暖簾をくぐったのだった。

 

元プロボクサーの高宮さんは、右目を失明している。

フライ級の日本チャンピオンに挑戦した試合でパンチを浴び、右目の光を失ったのだ。

 

その人が「プロボクシングは、他にやりたいことがあるのに通用するほど甘くない。

命をかけられないならやめろ」と言ったのだ。

 

矢のような鋭い音を立てて、胸にグサッと突き刺さった。

私に続ける選択肢はなかった。

 

この日から、私はことあるごとに考え、模索してきた。

「プロとは何か?」「自分は何に命を懸けるべきか?」。

 

そして、もう半世紀も経つが今なお、明確な答えを見つけられないでいる。

だが、決して答えをあきらめたわけではない。

今日も問い続けている。