忘れられない恋がある。
誰にだって、心の奥底にしまい込んだ過去がある。
どこにいるのかさえ分からない、彼女に向かって恋文を書く。
記憶をたどって、過ぎし日日に戻ってみよう。
エッセイは恋文だ。
恋文、それこそが人の心に響き、自らを潤す。
あの時、なぜ言えなかったのか?
あの時なぜ、彼女に一言が言えなかったのだろう?
白い笑顔が、今でもまぶしい。
彼女と会ったのは5月の半ば、東京練馬の石神井公園だった。
「明後日、お母様が迎えに来てくださるの」。
人気の少ない三宝寺池のほとりを歩きながら、思わず彼女の口をついて出たのが「お母様」だった。
映画やドラマ以外で、自分の母親を「お母様」と呼ぶのを聞いたのは、きっとこの時が初めてだったと思う。その後も聞いた記憶がない。
しかし、ごく自然に彼女の口を突いて出たから全く違和感はなかった。むしろ、その自然さが私には驚きであり、新鮮だった。
私は私大の文学部3年生で、彼女は美大で日本画を学ぶ2年生だった。とても気の合う友人が彼女と同じ美大で建築学を学んでいる。
その友人は日本文学を研究するサークルに入っていて、文学部の学生と交流したいということになり、連絡が来たのだ。
双方合わせて十数人の会が立ち上がり最初の会合に臨んだのだが、美大のメンバーに透明感の際立つ女子学生が一人いた。私たち文学部の学生から好奇の視線を一身に浴び、戸惑った様子を見せたのが彼女だ。
顏の白さも際立っていたが、一つひとつの動作のなんとたおやかで優雅なことか。田園調布か成城あたりで育ったお嬢様だろうと思っていたのだが、福井から出てきたと聞いてさらに驚いたことを今でも鮮明に覚えている。
その後、不定期に何度も会合は開かれたが、多くは明治時代の小説に登場する浅草や根津、神田など下町の散策だった。そして、居酒屋で夕方から夜遅くまで文学論や芸術論に花を咲かせるのだ。
新聞配達をしていた私は、夕刊のある平日は参加できない。彼女も散策には参加したが居酒屋談義には一度も行かなかったようだった。
だから彼女とは、日曜日に開催された会合で3、4回しか会っていなかった。久々に会うと二人はよく話し込んだ。彼女は島崎藤村が好きだと言う。
私が「芥川龍之介の小説を最も多く読んでいる」と言えば、「ちょっと神経質そうなところが、龍之介に似ていますね」と彼女は返した。
そして、私が北海道出身であることに彼女は強い興味を抱いた。
「北海道ですか。いいなあ。行ってみたいなあ、行ってみたい。雄大な大地に私なんか圧倒されてしまいそう。食べ物も美味しそうで素敵」
夢見るようなまなざしで、北海道への憧れを語ることもあった。
大学3年生になって間もないゴールデンウイークが終わったころ、彼女の噂を耳にした。大学をやめて福井に帰るらしいという。理由はわからない。
美大に通う親友に連絡を取った。詳しいことは知らないが福井に帰る事だけは間違いないという。
頭の中をいろんな思いが駆け巡り混乱したが、すぐに結論は出た。彼女と連絡が取れる電話番号を調べてくれるように美大の友人に頼んだのだ。こんな時、この男は頼りになるのだ。
当時では最先端の、女子学生ばかりが入居する高級マンションに彼女は住んでいた。マンションはガードが固くセキュリティが万全だと知って、同じサークルの女子学生に連絡を取らせたのだから、やはり頼りになる奴だ。
そのような友の粋な計らいがあり、石神井公園駅で会うことになったのだ。二人は駅から公園までの坂道を五月晴れの空に見守られながら、ゆっくりと下った。
特に重い持病があるわけではないが、幼い頃から体が弱かったのだと彼女は話してくれた。東京の大学へ進学することも反対されたが、両親を説得して何とか許可してもらったのだという。
だが、やはり東京で一人暮らしを続けることに自信が持てなくなったのだと言いながら、視線を落とした。1年あまりの学校生活は貴重な体験ばかりで全く悔いはないと言いながら、今度はリラの花のような笑顔を見せる。
私は自分で呼び出しておきながら、そんな彼女に何を話してよいのか言葉が見つからない。気持ちが焦るばかりで、ますます口数が少なくなってしまう。なんと情けない。
むしろ彼女の方が意外なほどよくしゃべってくれたので、なんとか場がもっていたようなものだった。その日の彼女は、どこが病弱なのだろうと思わせるほど快活に振舞ってくれた。
普段とはどこか違う私をきっと気遣ってくれたのだろう。彼女は心やさしい人だ。
けれども、五月の青空のように彼女が明るく振舞えば振舞うほどこちらは気後れして、何も告げることができない。会ってくれたことへの礼を言うのが精いっぱいだった。
じっと見つめていたいのに、まともに目を合わせることさえできなかった。
別れは、刻一刻と近づく。日が西に傾き、風が少し冷たくなった。ついに恐れていた時はやってきた。彼女は静かに言う。
「そろそろ帰らなければ・・・・・・」
どこか寂しそうで、最後の方は聞き取れないくらいに小さな声だった。それでも本心を飲み込んだままとは、なんという男だ。
彼女は石神井公園駅まで歩いて、そこからタクシーで帰るという。駅まで送ることにした。途中の道もやはり私は、言葉も心も弾まなかった。
一つの言葉が、喉のあたりに引っ掛かったままだから、心は鉛を飲んだように重いのは当然だ。
別れ際、ハンドバッグを両手で持って、いかにも育ちの良いお嬢様らしく丁寧にお辞儀をした。その姿を見て一挙に愛おしさがこみ上げる。
彼女を抱きしめたい衝動がつま先から頭のてっぺんまで突き抜けていく。だが、身体は台座に固定されたブロンズ像のように動かなかった。
タクシーに乗り込む寸前、彼女は頭の上で右手を振った。白くて、細く、長い指だった。ドアが閉まる。窓ガラスに白い顔を押しつけるように私を見ている。口元の動くのが見えた。視界から完全に消えるまで、彼女はガラス越しにこっちを見ていた。
私は無力だった。今からでも遅くはない。大声で叫べば彼女の耳に届いたかもしれない。こんな時、人目を気にしたって仕方ないだろうに。ルールやマナーなんか無視しても構わないシチュエーションなのだから。
わざわざ会いにきてくれた彼女には、地球上のすべての法律で禁止されたとしても、それを無視して言葉ではっきりと伝えなければならないことがあった。それが礼儀だ。男らしさだ、勇気だ、やさしさだ。
それなのにブレーキがかかってしまう。ブレーキの正体も知っている。未来の展望を描けない恋はあきらめざるを得ないのは道理だ。
だが、しかし、そうであっても彼女には自分の偽らざる心をしっかりと伝えるべきだった。二人だけで会うのは、これが最初で最後だろうと予感しながら、なぜ、伝えられなかったのか。今もふと思い出すのだ。
吹き荒れた学園紛争も落ち着き、日本が高度経済成長をひた走った昭和49年のことだった。
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忘れられない神々しさと哀愁
なんと美しい栗毛だろう。18歳の少年は栗毛の娘に一目惚れしてしまった。
少年は毎朝、顔を合わせるとポンポンと背中を二度叩いてやる。それを合図に彼女は元気いっぱい朝の光へ駆け出していく。
夕方には愛おしい栗毛の頭を撫でてやるのが日課になっていた。時には人目もはばからず思いっきり抱きしめてやることもあったけれど、周囲の大人たちはニコニコやさしく見守ってくれたのだった。
一年前にアメリカからやってきたという彼女は、長い四肢を伸び伸びさせて芝の上を時にはゆったり、時には疾走して一日を無邪気に楽しんだ。
無邪気ながらも頭のてっぺんからつま先まで、気品をまとった彼女の姿を見るたびに少年は胸がときめくのだった。
晩秋の日のことだった。北海道にはいつ初雪が舞い降りても不思議のない季節だ。けれど、その日は小春日和で、遠く澄み渡った西の空に雲がポツンと浮かんでいた。
牧場の片隅にたたずむ彼女は、その西の空を見つめている。やわらかな日差しを浴びて栗毛はいつにも増して輝いていた。
はるかアメリカの故郷テキサスへ思いをはせているのだろうか。神々しい後ろ姿にどこか哀愁が見え隠れしていたのだった。
それから二ヶ月ほどして日高の牧場も一面雪に覆われたころ、突然、別れがやってきた。永遠に続く出会いなどあるわけがない。別れは世の常だ。
少年は牧場を去らなければならなかった。大好きな彼女のもとを去ってまでも、追いかけなければならない夢があったのだ。
けれども、晩秋に見たあのワンシーンは永遠に少年の胸に刻まれた。決して忘れることはないだろう。
彼女の名は『エクセレント』。当時6歳のサラブレッドだった。