日本ゴルフ史に燦然と輝く、鳴尾ゴルフ倶楽部。
その誕生は、明治から大正、そして昭和初期という激動の時代を背景に、多くの困難と挑戦を乗り越えながら実現しました。
クレイン三兄弟、チャールズ・アリソンら偉大な先人たちの情熱と知恵が織りなす、名門コース誕生のドラマに迫ります。
英国人実業家クレーン三兄弟の夢
鳴尾ゴルフ倶楽部の礎を築いたのは、英国人実業家のハリー・クレイン、バーティ・クレイン、ジョー・アーネスト・クレインの三兄弟でした。
彼らは、日本最古の神戸ゴルフ倶楽部の冬季プレー不能問題を受け、年中ゴルフを楽しめる新天地を模索するのでした。
そして、兵庫県武庫郡鳴尾村に日本初の海浜コース「鳴尾ゴルフアソシエーション」を開場させます。
度重なる試練と不屈の精神
しかし、未曾有の大不況により、アソシエーションは3ホールへの縮小を余儀なくされ、ついには解散。
それでもクレイン兄弟と、当時日本最大級の総合商社として知られた*鈴木商店の有志たちは諦めませんでした。
1920年、彼らは力を合わせて「鳴尾ゴルフ倶楽部」として再出発を果たします。
こうして現存する日本最古級のメンバーシップクラブの一つとして、その長い歴史を刻み始めたのです。
鳴尾ゴルフ倶楽部の歴史は、鈴木商店抜きに語れません。
実は、鳴尾アソシエーションが最初に開設された土地も、鈴木商店の所有地だったのです。
アソシエーション解散後も、鈴木商店の社員や関係者たちはこの地にゴルフ場を残したいという想いを抱き続け、英国人クレイン三兄弟と協力して、新たに「鳴尾ゴルフ倶楽部」を設立しました。
この強い絆があったからこそ、鳴尾は時代の荒波を乗り越え、現代まで続く名門へと成長したのです。
🔎 鈴木商店とは?(簡単な豆知識)
鈴木商店は、明治後期から大正時代にかけて日本経済界を牽引した総合商社です。
製糖、石炭、鉄鋼、航運など幅広い分野に進出し、「鈴木王国」と呼ばれる巨大経済圏を築きました。
特に商才に長けた番頭・金子直吉の手腕で一大勢力となりましたが、1927年の昭和金融恐慌の影響を受け、惜しくも破綻しました。
移転と再生、そして奇跡の造成
昭和初期、鈴木商店の倒産によりコース用地を失った鳴尾ゴルフ倶楽部は、猪名川沿いの新天地を求めて移転を決断します。
昭和4年、山ひだと谷間など変化に富んだ丘陵地に着工。
ブルドーザーもない時代、すべて人力で切り開いた壮絶な工事は、わずか11ヶ月で完成しました。
この奇跡のようなスピード造成こそ、鳴尾の伝説の始まりでした。
アリソンによる大改造と現在の姿
昭和初期、世界的ゴルフコース設計家チャールズ・アリソンが日本を訪れた際、鳴尾の設計に助言を与えます。
アリソンは東京ゴルフ倶楽部が駒沢から移転する朝霞コースの設計を依頼されていました。
鳴尾の関係者は、この機を見逃しません。
アリソンに助言を求めます。
これにより大胆なコース改造が実施され、景観美と戦略性を兼ね備えた、世界に誇るコースへと進化。
現在では、パー70・コースレート72.1という難易度を持ちながらも、多くのゴルファーを魅了し続けています。
チャールズ・アリソンが日本に来た理由
チャールズ・アリソンが日本を訪れたのは、東京ゴルフ倶楽部朝霞コース設計のためだけではありませんでした。
日本における近代ゴルフコース設計の需要が高まっていたのが、大きな理由です。
特に、昭和初期(1920年代末~1930年代初頭)、日本でもゴルフ人気が急速に高まり、東京周辺を中心に新しい本格的コースの建設機運が高まっていました。
当時、東京ゴルフ倶楽部の移転など、「世界基準の戦略性を持つコース設計」が求められるようになり、英国本国で既に名声を得ていたアリソンに白羽の矢が立ったのです。
具体的な来日の背景
1929年、東京ゴルフ倶楽部の新設(朝霞コース建設)において、コース監修役としてアリソンが招聘されました。
当時の日本ゴルフ協会や有力ゴルファーたちの強い要望によるものです。
アリソンは、この来日を機に、
- 鳴尾ゴルフ倶楽部
- 小金井カントリー倶楽部
- 茨木カンツリー倶楽部(西コース)
- 広野ゴルフ倶楽部(アリソンの影響を受けた設計)
など、日本各地のコースにも助言・設計提案を行いました。
つまり、アリソンの来日は単なる「視察」ではなく、日本のゴルフ文化そのものを近代化する大プロジェクトだったのです。
まとめ:挑戦と情熱が生んだ、唯一無二の舞台
鳴尾ゴルフ倶楽部は、ただの「古いゴルフ場」ではありません。
幾多の試練を乗り越え、世界に誇れるコースを築き上げた人々の挑戦と情熱の結晶です。
その歩みを知ることで、ラウンドする一打一打に、より深い敬意と感動を覚えることでしょう。