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入会条件が明快!スリーハンドレッドクラブをつくった真の目的は?

ゴルフ名門コース

スリーハンドレッドクラブの入会条件には仰天してしまう。

仰天と同時に、実にわかりやすい規定でもある。

 

✔一部上場企業の社長で50歳以上の男性

✔政治家は外務大臣及び首相経験者の限る

 

たったこれだけだ。

他に面倒くさいことは一切ない。

 

その、スリーハンドレッドクラブは名門ゴルフ場に特有な厚いベールに包まれて、実態はほぼ外部に漏れることはない。

 

しかし、調べれば調べるほど、このゴルフ場は素晴らしいプライベートコースだと思えてくる。

今時、ホームページを持たない、日本では類を見ないカントリークラブだ。

 

仰天で、なおかつ分りやすい入会条件から見えてくる、スリーハンドレッドクラブ設立に隠された、五島昇の真の目的に迫った。

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不思議なゴルフ場、スリーハンドレッドクラブ設立の目的は?

スリーハンドレッドクラブは、不思議なゴルフ場である。

入会条件を改めて確認しておこう。

 

・政治家は外務大臣、首相経験者に限る
・一部上場会社の社長で50歳以上の男性
・各国の駐日大使は入会金無しで会員になれる

 

正確には、各国の駐日大使は無料で会員になれるという項目もある。

 

プライベートカントリークラブであるから、厳しかろうと閉鎖的であろうと、誰からも文句を言われる筋合いはない。

 

ところがである。

スリーハンドレッドクラブ玄関横の柱には、論語の有名な文言が刻まれている。

 

「有朋自遠方来不亦楽乎」:朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや

〈友人が遠くからたずねて来てくれた、何と楽しいではないか。 〉

 

もう一つある。

 

「不許冠職入山門」:冠職山門に入るを許さず

〈身分や地位、職業を意識してここに入ってはならない〉

 

「有朋自遠方来不亦楽乎」は分からないではないが、問題は「不許冠職入山門」の方だ。

 

入会条件では実に明確に職業や地位で規制しておきながら、スリーハンドレッドクラブのハウスに入った途端、地位や職業は忘れろ、というのだ。

 

一見、矛盾に思えてしまう。

不思議な相克が垣間見える。

 

だが、よく考えてみると矛盾でも不思議でもないのかも知れない。

五島昇がスリーハンドレッドクラブを開設した真意は、この論語にこそあるのではないだろうか。

 

五島が生前、常々口にしていた信条は、「人と人を結びつけるのに、ゴルフほど健康なものはない」だった。

 

そして入会条件は、ワシントン郊外にあって、大統領のゴルフ場と異名をとるバーニングツリーゴルフクラブを模倣している。

 

渡米した岸信介首相がアイゼンハワー大統領と、日米安保条約に関して忌憚のない意見をぶつけ合い友情を深めたたゴルフ場だ。

 

これらのことからして、五島昇がスリーハンドレッドクラブを日本におけるトップエリート交流の場としたかったのは容易に察しが付く。

 

そして、五島は日本をリードするべき立場の者は、謙虚でなければならないと言いたかったのだと思う。

謙虚な姿勢、思索、信条がなければ、トップとしての責任は果たし得ないと考えていたはずだ。

 

それを『不許冠職入山門:身分や地位、職業を意識してここに入ってはならない』で、表現したのではないかと推測するのだ。

 

もし、この推測が当たっているなら五島昇は死してなお、己の信条をスリーハンドレッドクラブに脈々と息づかせていることになる。

 

何と素晴らしいことだ。

五島は空の上からプレーヤーを眺めつつ、ほくそ笑んでいるに違いない。

 

いやはや、本当にスリーハンドレッドクラブは不思議なゴルフ場である。

ここで五島昇について、簡単に触れておきたい。

スリーハンドレッドクラブをつくった五島昇とは、どんな男?

五島昇は東急電鉄の創業者である、五島慶太の長男として1916年(大正5年)に誕生した。

戦後グループを急成長に導き、東急中興の祖と呼ばれる存在だった。

 

東急百貨店、東急ストア、東急ハンズなどは、すべて五島昇の時代に創業し成長を遂げた企業群だ。

日本商工会議所会頭、日本小売業協会会長など歴任し、流通業界のみならず財界重鎮の一人だった。

 

東京帝国大学経済学部の出身。

東大時代は野球部に入ったが1年で退部し、ゴルフ部へ入部する。

 

五島慶太の跡を継いで東急グループの総帥となってからは、冗談半分に「東京大学ゴルフ部出身です」と挨拶していたほどのゴルフ好きだった。

 

ゴルフの腕前は、JGAのオフシャルハンデ2という強者だ。

全日本アマ選手権の全国大会には何度も出場している。

 

スリーハンドレッドクラブは名匠・井上誠一の流れを汲む、東急系のコースを数多く手がけた宮澤長平の力を借りながらも、大部分を五島自身が設計した。

 

スリーハンドレッドクラブの名物ホール9番と10番は、永久に改造してはならないとの遺言を残している。