四国の温泉郷に展開する名門コース、奥道後ゴルフクラブ。
『眠狂四郎』で有名な作家柴田錬三郎のために造られたコースで、後にも先にも正会員は彼一人なのだと言う。
その辺の詳しい事情は後述しますが、湯の里の名門コースで心惹かれるのは豊富な花や木と眼下に広がる絶景、そして素晴らしいキャデイさんだ。
これほど素晴らしいコースなのにプレー料金は決して高くはありません。
否、満足度からするとむしろ『安い!』と思うでしょう。
では、10万本を超える植樹が四季折々の花を咲かす、魅力あふれる四国の名門コース・奥道後ゴルフクラブについて詳細します。
瀬戸内の絶景、綺麗な花々、素晴らしいキャディでこのプレー料金は安い!
奥道後ゴルフクラブが誇る日本一とは、植樹の本数です。
四季折々に花を咲かせる植樹の総本数は10万本を超えるから、ただ、ただスゴイ!
18ホールすべてに樹木の名前が付けられ、季節が来るとホールを象徴する花が咲くのです。
ホール名と象徴する花が同じ場合と違う場合があります。
例えば1番ホールはフェニックスホールと名付けられていますが、花は山桃です。
4月後半になるとティグラウンド後方に咲いた、山桃の深紅がプレーヤーの目を和ませる。
同じように8番パー3はザクロホールでザクロが無数植樹されている。
ザクロの花がホール全体を囲むように咲き乱れるゴルフ場なんて、日本では奥道後カントリークラブ以外聞いたことがありません。
18番パー4は椿ホールで冬には池波正太郎・水上勉・佐野洋・新田次郎・安達瞳子らが集めた椿の花がホール左サイドを埋め尽くすのです。
17番は泰山木ホール。
泰山木と言っても知らない人は多いでしょうね。
下の写真のような大きな白い花を咲かせます。
この大きな木が17番ホールのフェアウェイ左右を埋め尽くすのだから壮観だ。
花の見ごろは6月初旬から7月初旬で梅雨の季節に咲き、夏が近づいていることを知らせます。
全18ホールから瀬戸内海が見えるように設計された奥道後ゴルフクラブは、稀に見る絶景にプレヤーは思わずミスショットも忘れ、見とれてしまうほど。
そして、とても評判が良いのはキャディさん。
プレーした方からはこんな声が続々と届いています。
とにかく景観が最高です。距離は短めとフェアウェイが広いのでいいスコアが期待できます。
キャディさんは研修生でしたがアドバイスが的確でいいスコアが出せました。
コースも施設も綺麗です。食事も美味しかった!
そして、キャディさんが素晴らしい!一生懸命仕事をして下さり、アドバイスも的確でした。
大満足です。
また利用したいと思います。
素晴らしいことだらけで、奇跡のゴルフ場と言っても過言ではない奥道後ゴルフクラブ。
奥道後ゴルフクラブでプレーした皆さんが大満足する背景には、プレー料金が安いこともあります。
奥道後ゴルフクラブ・ビジター料金一覧
平日プレー | 土・日・祝日プレー | 料金に含まれるもの |
---|---|---|
14,900円
|
21,500円
|
・グリーンフィ ・キャディフィ ・カートフィ ・ロッカーフィ ・諸経費 |
あの広々としたコースレアウトに咲き乱れる四季の花々、一望する瀬戸内海の絶景、そして熱心で献身的なキャデイさんに食事も美味しい。
これで、この料金ですから満足度は最大になりますね。
あ、上記の料金表に食事代は含まれておりません、念のため。
奥道後ゴルフクラブコースデータ
〒799-2424
所在地:愛媛県松山市八反地乙102
連絡先:TEL 089-993-3311
【奥道後ゴルフクラブヤーディジ】
yard | Par | Back | Reg. | Front |
---|---|---|---|---|
OUT | 36 | 3330 | 3110 | 2959 |
IN | 36 | 3364 | 3130 | 2964 |
奥道後カントリークラブ公式サイト
奥道後ゴルフクラブ開設にはこんな裏話があった!
奥道後ゴルフクラブは歴史作家・柴田錬三郎のために四国の大将と呼ばれた企業家・坪内壽夫が造成したゴルフ場だ。
昭和40年代半ばのことだった、穏やかな瀬戸内海沿いを走る車の後部座席には、柴田錬三郎と坪内壽夫が肩を並べて海を眺めていた。
「こんな綺麗な瀬戸内海を眺めながらゴルフがしたいもんだなあ」
つぶやいたのは歴史作家だった。
「先生、2年待ってください。先生がいつ松山に来ても、好きな時にゴルフが出来るようにしてあげますから」
そう答えたのは四国の大将だった。
高度経済成長期を迎え、日本中にゴルフブームが訪れる前夜とも言える時代だった。
その日の夕方には、部下に向かって坪内の檄が飛んだ。
「18ホールすべてから瀬戸内海が眺められるゴルフ場を造るんじゃ」
「瀬戸内海に沈む夕陽が、一番綺麗に見える土地を探せ」
翌日にはヘリコプターが飛ぶ。
空からの地形探査が始まったのだ。
坪内は映画の大好きな男でもあった。
何度も観て脳裏から離れない映画の主人公がいた。
『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』に出てくる美男剣士だった。
白装孤影の剣士・源氏九郎の秘剣揚羽蝶は、凄絶な死闘の中にあっても蝶のように華麗に舞いながら悪をやっつける。
原作は柴田錬三郎原の『秘剣揚羽蝶 源氏九郎颯爽記』。
映画では萬屋錦之助が演じた。
坪内壽夫は揚羽蝶が羽根を広げたような、ゴルフ場の全貌に仕上げたかったのだと言う。
坪内のあらゆる欲求を満たす得るだろう、その場所は決まった。
白羽の矢が立ったのは、伊予の国の豪族・河野氏の居城であった『風早の郷』。
海からの侵略に備えて瀬戸内海を一望でき、後ろには高縄山が控える戦略的には絶好の地であった。
しかし、戦略的に絶好であるがためにゴルフ場開発には問題が立ちふさがった。
鉄壁な守りは自然を最大限生かしていたため、山が二つ前後にそびえていた。
山を巡るコースを造成すると全ホールから瀬戸内海を見ることは不可能だ。
坪内は命令する。
「山を削って谷を埋めろ!」
半年ほどして、二つの山から頂上が消えた。
それでも埋まらずに残った谷があった。
日本で走り始めたばかりの大型ダンプで、おびただしい量の土砂が谷を埋める為に運び込まれる。
やがて、外敵からの攻撃に対して鉄壁を誇った『風早の郷』は大きくその姿を変えた。
こうして計画から2年ほど遅れた昭和50年6月8日、18ホール、パー72の奥道後カントリークラブはオープンの日を迎えたのだった。
ゴルフ場がオープンして3年後の昭和53(1978)年6月30日、日本の歴史小説に燦然とその名を遺したシバレンこと柴田錬三郎はこの世を去った。
自分の為に造成されたゴルフ場で好きな仲間と自由に過ごせた時間は、シバレンにとって何事にも代えがたい至福であっただろう。
しかし、その時間は意外に短かったのだ。
作家はその生涯を閉じる直前、自らの思い出を瞼に焼き付けるべくこの地を訪れたのだと言う。
瀬戸内海にまさに沈まんとする夕日の光に身を任せ、たった一言の呟きからとてつもない夢を実現してくれた坪内の友情に万感の思い抱いていたのだろうか。
令嬢に脇を支えられ、友人坪内壽夫と並び、飽くことなく夕暮れる瀬戸内海を眺めていたと言う。
それから数日後、シバレンは静かに逝ったのだった。
たった一人の友人為に一切を自費で賄い、ゴルフ場18ホールを造り上げてしまう豪快で破天荒な人物が、これからの日本に果たして現れるであろうか?
◎柴田錬三郎
1917年〈大正6年〉3月26日 – 1978年〈昭和53年〉6月30日)
歴史小説に新風を送ったことで業績は名高い。『イエスの裔』は芥川賞と直木賞の両方の候補となったが天秤にかけて直木賞を受賞し、その後選考委員となる。代表作に『眠狂四郎』『赤い影法師』『御家人斬九郎』『水滸伝』『徳川太平記』など多くがあり、戦国・幕末を扱った作品が多く、剣客ブームを巻き起こした。
出典:ウイキペディア
◎坪内壽夫(ヒサオ)
1914年9月4日 – 1999年12月28日)は愛媛県伊予郡松前町生まれの日本の実業家。倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から、一時はマスコミによって「再建王」、また船舶・造船・ドック会社を多数抱えたことから「船舶王」、四国を中心としたグループ形態から「四国の大将」とも称された。
本名は桧三夫であったが、妻の姓名判断により寿夫に改名した。
一代で造船・海洋を中心とした来島グループ(来島ドックグループ)とも呼ばれる180社を超える巨大企業群を作り上げた。経営手法は、徹底した「コスト削減」と「信賞必罰人事」を軸とした。
出典:ウイキペディア
奥道後ゴルフクラブへのアクセスは?
〒799-2424
所在地:愛媛県松山市八反地乙102
連絡先:TEL 089-993-3311
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