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東京ゴルフ倶楽部の歴史と現状・会員権とプレー料金そして内紛とは?

東京ゴルフ倶楽部 ゴルフ名門コース

オリンピックのゴルフ会場となった霞ヶ関カンツリー俱楽部とホールを接する『東京ゴルフ倶楽部』

 

苦難に満ちた歴史と倶楽部の現状、そしてメンバーになる方法と費用も詳細します。

さらには、あなたがゲストでプレーしたら、一体いくらかかるのか?

東京ゴルフ倶楽部

理事長以下全理事が辞任に追い込まれた、内紛についても触れています。

しかし、何があっても名門中の名門、その名声に揺るぎはありません。

 

休日貸し切りなど一切やらない東京倶楽部は、一般ゴルファにとって隣のカスミよりも、ある意味敷居の高いゴルフ場だ。

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東京ゴルフ倶楽部の入会資格と女性会員、ゲストのプレー料金は?

 

さて、気になるのが東京ゴルフ倶楽部の会員権の値段とゲストのプレー料金ですね。

会員になる条件はたった一つ、現会員の紹介のみです。

 

ただし、その後どのような審査があるのかなど、詳細は一切明らかにされていません。

調べて分かったのは下記のようなこと。

 

・入会するには800万円必要で、最初は平日会員のみ

・入会後、3年ほど実績を積むと正会員への試験がある

・正会員になる時、400万円を追加で支払う

・会員権は一代限りで、相続も譲渡も不可

 

会員はすべて含めて1200人前後が在籍していると推定される。

正会員は男性だけで、女性は登録会員が約100名ほど在籍している。

 

上記にあるように一代限りのメンバー制で、相続も譲渡も不可ですから、よほど懇意にしているメンバーがいなければ、まず入会は無理です。

 

そして、ゲストでプレーしたらどのくらいかかるのか?

・平日:34,530円
・休日:40,030円

これは2020年2月時点の料金です。

さすがですね、バブル崩壊後値下げするゴルフ場が多い中で、金額はほぼ変わっていません。

 

平日はメンバー同伴で女性もプレーできるが、休日はメンバーオンリーが多く、排除しているわけではないがプレーできる日は少ないようだ。

 

参考までに他の名門コースのゲストフィを載せておきます。

 

名門ゴルフ場ゲスト料金一覧

東京都 平日 土曜 日曜
小金井カントリ-倶楽部 32,880 42,780 42,780
神奈川県 平日 土曜 日曜
相模カンツリー倶楽部 27,740 34,340 34,340
程ヶ谷カントリー倶楽部 27,290 32,790
スリーハンドレッドクラブ 30,650 35,900 35,900
埼玉県 平日 土曜 日曜
霞ヶ関カンツリー倶楽部 31,560 35,960 35,960
東京ゴルフ倶楽部 34,530 40,030 40,030
茨城県 平日 土曜 日曜
イーグルポイントゴルフクラブ 25,730 36,180 36,180
水海道ゴルフクラブ 21,000 38,600 33,100
千葉県 平日 土曜 日曜
我孫子ゴルフ倶楽部 30,999 36,499 36,499
鷹乃台カンツリー倶楽部 26,630 32,630 32,630
久能カントリー倶楽部 19,000 34,000 30,000
柴カントリークラブ 23,200 35,300 32,000
東急セブンハンドレッドクラブ 29,920 38,320 38,320
グレートアイランド倶楽部 24,775 34,775 34,775
栃木県 平日 土曜 日曜
那須ゴルフ倶楽部 23,730 29,840 29,840
長野県 平日 土曜 日曜
旧軽井沢ゴルフフラブ 25,155 30,505 30,505
静岡県 平日 土曜 日曜
川奈ホテルゴルフコース 富士コース 27,000 36,500 35,500
川奈ホテルゴルフコース 大島コース

(セルフ)

13,000 17,000 16,000
ファイブハンドレッドクラブ 24,100 38,400 38,400

 

尚、日本オープンが計7回も開催されている。

これは勿論、日本一です。

 

 

1928年(昭和3年)   – 第2回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催   :駒沢コース
1935年(昭和10年) – 第8回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催   :朝霞コース
1940年(昭和15年) – 第13回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催 :朝霞コース
1954年(昭和29年) – 第19回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催
1964年(昭和39年) – 第29回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催
1988年(昭和63年) – 第53回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催
2001年(平成13年) – 第66回 日本オープンゴルフ選手権競技大会開催

日本オープン7回開催の名門・東京ゴルフ倶楽部の内紛で理事長以下全理事が辞任

ゴルファーなら誰もが知っているゴルフの名門コース東京ゴルフ倶楽部で金銭絡みの不祥事が発覚したのは、2013年のことであった。

 

経理関係者による1億2000万円もの横領を内々に処理しようとしたのであるが、写真週刊誌にスッパ抜かれることとなった。

 

これを受け同年、不祥事の責任を取る形で竹田 恒正(つねただ)理事長以下、全理事が辞任するに至ったのです。

 

竹田恒正氏は旧皇族で、現JGA会長。

JOC(日本オリンピック委員会)前会長の竹田恒和氏は弟である。

 

日本ゴルフ協会(JGA:JAPAN GOLF ASSOCIATION)が1924(大正13)年10月に発足して以来、つねに中心的な役割を果たしてきたのが東京ゴルフ倶楽部である。

 

しかし、日本を代表するゴルフの名門コースは、2度の移転と戦争による閉鎖に見舞われるなど、その歴史は苦難に満ちたものであった。

東京ゴルフ倶楽部にはいわゆる『バブル紳士』が在籍していた時期がある。

名簿で確認したわけではないが、怪文書が出回ったこともあった。

 

俱楽部中枢の人間複数が金で買収され、バブル紳士入会の便宜を図ったと噂された。

確かに名前を聞けば、「なぜこの連中が?」と首をかしげざるを得ない名前が、怪文書には載っていた。

 

あくまでも怪文書である。

詳細は当事者と神のみが知る。

 

ただ、あのレベルのことでは由緒ある歴史に支えられた東京ゴルフ倶楽部への影響は、たかが知れている。

 

蚊よりちょっと大きいアブに刺された程度だろう。

このクラスの倶楽部になると人材は豊富なので、理事長の適任者には困らない。

東京ゴルフ倶楽部は日本初の日本人によって造られたゴルフ場

東京G倶楽部の開場は大正3年(1913年)であるから、すでに105年以上の歴史を誇る名門ゴルフコースである。

関東で一番古く、日本最初の日本人によって造られたゴルフコースでもある。

 

軽井沢G倶楽部が現在の場所に移転した当初のメンバーは約200人でしたが、その大半は東京G倶楽部のメンバーであったから、両者の縁は深いのである。

 

最初は東京府荏原郡駒沢村(現在の東京都世田谷区駒沢)の通称大切山(でんぎりやま)に3万坪余りの土地を借りて造成され、大正3年(1914年)6月東京G倶楽部が創設されたのである。

 

6ホールで仮開場し後に9ホール2,300ヤードとなって、これが日本人が日本人のために作った最初のゴルフコースであった。

 

それまでのリンクスは外国人の発案と資本によって造成され、主に外国人たちの憩いの場、社交の場であったのだ。

 

当時の日本のほとんとの倶楽部はサンド・ティにサンド・グリーンそして雑草と細かい砂利のフェアウェイだった。

 

駒沢の東京G倶楽部はティグラウンドからずうーっと、一面に高麗芝が敷かれていた

この倶楽部でラウンドして始めてGOLFは芝の上でやるものだ、と分かった日本人が多くいたのだと言う。

 

昭和7年(1932年)には埼玉県朝霞に新しい用地を確保して、英国からC.H.アリソン氏を招き日本で初めて『アリソンバンカー』を配置した本格的なコースが誕生したのである。

 

彼のデザインの特徴である、あごの深い、大きなバンカーは日本のゴルファーに衝撃を与えるには、充分すぎるほど斬新であった。

 

ゴルフの名門コースを設計したアリソンに支払われた設計料は往復の旅費と滞在費を含めて1,500ポンド(2万円・現在の価値で1,600万円余り)だったと言われています。

 

他にスーパーバイザーのジョージ・ペングレースに半年間月額400ドル(800円、現在の価値で64万円余り)が支払われたようです。

 

日本を愛してやまなかったチェコ出身の建築家、アントニン・レーモンド氏の設計による白亜のクラブハウスも同年に完成し、東洋一のカントリー倶楽部と評されたのです。

 

誇り高き東京倶楽部のメンバーを大いに満足させたであろうことは、想像に難くありません。

クラブハウスの建設費には当時としては破格の10万円(現在の価値で8,000万円余)を費やしています。

ベーブ・ルースと国登録有形文化財になったクラブハウス

昭和9年(1934年)には、日米野球で日本を訪れていた米メジャーリーグのホームラン王、あのベーブ・ルースもプレーしていて写真が残されている。

 

日本では初のグリーン、フェアウェイ、ラフのすべてにベント芝を敷き詰め、東洋一の評価を勝ち得た朝霞のクラブ。

 

しかし、陸軍省に陸軍予科士官学校用地として買い上げられることになり、日米開戦前年の昭和15年(1940年)、わずか8年間で無念のクローズとなったのです。

 

現在の埼玉県狭山で当時ほぼ建設を終えていた秩父カントリー倶楽部と合併し、何とか同年中に2度目の移転を果たしたのであった。

が日本の敗戦後は、占領軍GHQに接収され更なる困難に直面するのであった。

 

やがてGHQが去り日本の独立とともに、昭和28年(1953年)倶楽部は返還され自主運営が可能となった。

 

昭和30年(1955年)には社団法人東京G倶楽部として再出発し、名門ゴルフ倶楽部は現在に至っている。

 

昭和38年(1963年)には創立50周年記念事業の一つとして、朝霞コース時代白亜のクラブハウスを設計したレーモンド氏のデザインにより、みがき丸太をたくみに生かした新クラブハウスが完成しました。

 

このクラブハウスは、2018年国登録有形文化財(建造物)に指定されることになるのです。

時代背景があまりにも違うので単純には比較できないけれど、東京倶楽部がアリソンに支払った1600万円余りの設計料はとても安いのではないだろうか。

 

何と比べて安いか、ジャック・ニクラウスの5億~10億円と比較してである。

私の知人が北海道のカントリークラブ造成に着手したのが、昭和62年。

 

設計に関してはニクラウスとスタッフの賃金を含めて5億円で契約したのでしたが、渡航費用は別精算となっていたようだ。

この渡航費用が曲者だった。

 

工事が進み日本の土木会社との打ち合わせがほぼ終わり芝張りが始まってからも、ニクラウスはスタッフを連れて度々やってくる。

 

自家用ジェット機でいつも4,5人のスタッフを連れていた。

2日ほど滞在し、各ホールを日に2,3時間見まわるだけで特段の仕事をするわけではなかった。

そのたびに燃料代やら何やらの名目で、数千万円の請求が来るのであったから堪らない。

 

この会社が以前から経営していた別のカントリークラブで社長に会うと、開口一番

「このままじゃ、完成までにニクラウスに10億円持っていかれるよ」

 

もう、ニクラウスのアドバイスがなくともゼネコンの力で、十分クラブは完成できるとのことであったから、

「社長が言いづらかったら、私が通訳に電話で断ってあげましょうか」

と提案した。

 

社長が自分で何とかすると言うことだったので、その提案は実現することなくカントリークラブは無事開場を迎える事ができた。

 

その後、細かくは聞かなかったし向こうも言わなかったが、7億や8億かかったことは間違いないだろう。

ニクラウスだって、日本で発生したバブルの申し子の一人である。

 

東京オリンピック会場となる霞ヶ関カンツリー倶楽部とはホールを接しているが、霞は川越市で東京倶楽部は狭山市が住所である。

 

東京G倶楽部が現在地に移転して昭和15年に建てられたクラブハウスが、平成30年11月2日付けで、建造物の国登録有形文化財に指定されたのである。

 

<国登録有形文化財(建造物)となった東京ゴルフ倶楽部・クラブハウス>

 

国の文化審議会は平成30年7月20日、狭山市柏原の『東京ゴルフ倶楽部クラブハウス』建造物の国登録有形文化財として登録するよう文部科学大臣に対し答申を行ったのであった。

 

この答申を受けて11月2日付で登録原簿に記載され、狭山市では初の国登録有形文化財誕生となったのです。