かつて静岡県側の富士山麓にザ・ナショナルCCが存在した。
国立公園内に立地し深い杉林と森に囲まれ、全ホールから富士山を眺められるのが自慢の優雅なコースだった。
このゴルフ場へプレーに行くとクラブハウスでよく有名人とすれ違った。
プロ野球関係者が多かったように思うが、特に印象が鮮明なのは、あの長嶋茂雄さんだった。
清楚な雰囲気を漂わせるお嬢さんと一緒にプレーに来ていたのは、当時大蔵大臣だったハシリュウこと故橋本龍太郎氏。
眩しいほどの存在感を放っていた、長嶋茂雄さんと会話したのはザ・ナショナルカントリークラブの練習場だった。
ゴルフ 名門コースで会話した長嶋茂雄氏がスゴイ!
現役引退、即ジャイアンツ監督就任。
6年間務めたジャイアンツ監督を辞め、この頃長嶋さんはいわゆる充電中だった。
ゴルフ好きの長嶋さんを千葉県と埼玉県のコース内で見かけたことはあったが、間近でしかも二人っ切りで話したのは初めてのことだった。
記憶が定かではないが、ザ・ナショナルCCの最終会員募集金額が1億円か1億2千万円だったような覚えがある。
1985年(昭和60年)のオープン当初は400万円で募集したが、爆発的なゴルフブームが訪れる前であり、決して順調とは言えず200名程度で打ち切っていた。
200名のうち数十人は政治家と財界の重鎮だったから、実質的なアクティブメンバーは100数十名だったようだ。
その後バブル景気と未曽有のゴルフ会員権ブームに乗って、4000万円、6000万円、8000万円の高額で、400名ほどの追加募集に成功した。
この超高額コースに筆者がメンバーとして在籍していたことがあるのだから、今振り返るに自分でも不思議である。
長嶋茂雄さんとはこのゴルゴ場で二人っきりで話す機会があったのだが、これがまた世評とはかなり違った印象を受けてやや驚きだった印象がある。
早朝の練習場は長嶋さんと筆者と研修生の3人だけだった。
「凄い!長嶋さん300ヤードは飛ぶんじゃないですか」
「いやー、240ヤードがいいところですよ。
こちらのメンバーさんですか?」
この日はザ・ナショナルCCの開場記念杯と銘打って、コース開場以来初めて行われるメンバーだけのコンペであった。
費用はすべてゴルフ場負担で、希望者は奥さんを同伴できた。
長嶋さんはどうやらオーナーの特別ゲストで参加するようだった。
ベージュのスラックスに緑のセーターを着こみ、Vネックから覗くゴルフウェアの白い襟からは、実にスマートでさわやかな印象を受けた。
少しの間会話の相手をしてくれたのですが、質問には面倒くさがらずきちんと答えくれて、とても気づかいのできる人だと感心したことを今でもはっきり覚えている。
しかし、それにしても長嶋茂雄は偉大である。
ジャイアンツの監督を辞任し、いわゆる充電中だったのだが、二人の会話を聞いていた20歳前後と思われる若い研修生が、直立不動で長嶋さんをじっと見つめていたのだった。
競技が終わりパーティが開催された。
明かりが落とされた会場へ、ゴルフ場オーナーが長嶋さん以下3人のゲストを従えて入場する。
スポットライトを浴びて、レストランの特設ステージへ登るのだが、長嶋さんだけが異様な存在感を放っていた。
他の二人のゲストがまるで霞んでしまうのだった。
一人は誰もが知っているゴルフの腕前シングルの超有名俳優で、もう一人は元女優の参議院議員なのだが、長嶋茂雄の前ではただの人同然なのだ。
招待客のほぼ全員の目が長嶋茂雄一人に注がれているような雰囲気で、会場は一時的に騒然となった。
筆者は朝の練習場で会っていたから、参加していることは分かっていたが他のメンバーの大部分は知らなかったのである。
この人気と注目度、そして存在感、長嶋茂雄はジャンルを超えて昭和が生んだ最大のスパースターだと、改めて認識させられた。
メンバーの表彰式の前にゲストの成績発表並びに表彰があったのだが、ここでもどよめきと感嘆があった。
長嶋茂雄氏71、もう一人の俳優さん72のスコアだから驚きである。
残りの女性ゲストのスコアは発表されなかったのか、記憶に残っていないのか定かではない。
ちなみに、この元女優の参議院議員は現在も国会で活躍中です。
偉大なる長嶋茂雄の話はまだまだ終わらない。
表彰式や挨拶も終わりパーティが懇談に移って間もなく、コンペで同伴したご婦人が突然こっちに向かって、
「長嶋さんが巨人の監督を引き受けるかどうか聞いてきて、今朝お話したんでしょ」
真剣な顔であった。
その日は友人と静岡県の会社社長ご夫婦の四人で回ったのだった。
聞くところによるとこの奥さん、長嶋さんの1年後輩で立教大学の3年間は長嶋茂雄の追っかけをしていたのだと言う。
こっちだってかなりの長嶋ファンであるが、この時点では巨人の監督に復帰すると言う情報は寝耳に水だった。
再三催促されたが、聞きに行ったところでまともな答えは得られるはずもない。
何とか受け流しておいたのであるが、後日ビックリすることになるのである。
ザ・ナショナルCCの開場記念コンペが終了してからしばらく経ち、長嶋茂雄追っかけのご婦人のことも忘れかけたころ、スポーツ新聞の見出しに目を奪われた。
『長嶋茂雄氏、巨人監督に復帰!』
一面にデカデカと写真と大きな文字が躍っていた。
長嶋茂雄の追っかけ恐るべし!と思わずにはいられなかった。
ザ・ナショナルCCで会った橋龍は好印象の紳士だった
当時大蔵大臣だった橋龍はダンディな男前で、世評と違って柔和な雰囲気だった。
プレー終了後のクラブハウスロビーで出会った。
精算しようとフロントへ向かったら、支配人が小走りにやってきて、
「橋本大臣の精算が終わるまで、ちょっと待って下さい」
と言うから、後ろを見たら橋竜がやってきた。
だが、一緒にプレーした誰かのカードがないようだった。
精算時フロントに提出する、スコアカードを入れる例のやつである。
橋龍は立ち止まりロッカールームの方を覗きながら、並んで立っている筆者と支配人にゴメン、とばかりに軽く手を挙げるしぐさをした。
間もなく若い娘さんが小走りでやって来るのが見えた。
「早くしなさい、あなたが来ないと他の方に迷惑がかかるから」
穏やかに言ってカードを受け取りフロントで精算を済ませ、玄関先で待っていた黒塗りの車へ乗り込んだ。
若い娘も一緒に乗ったのだったが、彼女は橋龍が精算している間、ロビーで待っている4,5人に対して無言でぺこりぺこりと頭を下げて、とても好印象を残して去った。
深々と頭を下げて見送った支配人が戻って来た。
思った通り、一緒に車に乗り込んだのは橋本龍太郎氏のお嬢さんだった。
「橋竜は秘書じゃなく自分でお金払うんだね、偉いよ」
支配人いわく、
「橋本大臣は、うちのゴルフ場では全く偉ぶったところはないですね」
橋本龍太郎氏はその後、内閣総理大臣まで登り詰めたのであるが、小泉内閣が断行した郵政民営化の反対派急先鋒であったがため、次の総選挙で自民党公認を得られず志半ばで政界引退を余儀なくされ、失意のうちに急逝した。
筆者はその時、ふと頭をよぎったのである。
後継者としてザ・ナショナルCCで一緒だった、あのお嬢さんを擁立すれば良いのにと。
しかし、儚い望みは叶わなかった。
慶応大学医学部教授も絶賛したザ・ナショナルCC
ある日、済生会中央病院の知人医師から依頼され、このザ・ナショナルCCで慶応大医学部関係のコンペを開催することになった。
8組くらいでの開催だったと思うが、医学部の教授からインターン、そして北里病院の関係者も何人か参加していた。
プレー後のパーティーで、まず筆者を紹介していただき、優勝者などコンペ参加者から次々とお礼の言葉をいただいた。
その中で一番多かったのは
「こんなハイ・グレードなコースでコンペができて、本当にありがたい」
と言うものでした。
東京から2時間以上かかり遠かったが、慶応大学の医学部関係者が口をそろえて絶賛するほど、素晴らしいコースだったのです。
コースは杉林と雑木の森でセパレートされているから、林に打ち込むことはあっても、隣のホールへボールが行くことはない。
メンバーが少なく、ゲストだけでは基本的にプレーさせないから、ラウンド中は前後に人が見えないのだ。
ひとホールワンパーティーが基本である。
何度もプレーしているが、パー3のティーグラウンドで待たされことも、グリーン上のパットを残して後ろの組に打たせた記憶もない。
たまに他の組を見かけるのは、見通しの良いミドルホールやロングホールの300ヤード先か400ヤード先であった。
料金も高かったがコースコンデションは申し分なく、キャディも一流で食事も美味しかったし、あらゆる面で落ち着いていた。
キャディさんやコースの従業員から聞くと何でこんな人が?と思うようなメンバーも何人かいたようであるが、風呂場以外は至近距離で他人と接することが少ないコースであるから、トラブルも起きにくいのだ。
そして何よりも支配人が素晴らしかった。
いつも笑顔を絶やさないが、決してメンバーにおもねることなく毅然とした対応であった。
一度コーヒーを飲みながら話しを聞いたのだが、彼の行動原理は従業員の立場になって判断することを優先していたように感じられた。
このようなコースだからお忍びで来るカップルなどは珍しくはなかったし、クラブハウス内では有名人とすれ違うことが度々だった。
筆者は冒頭、かつてザ・ナショナルCCがあったと記した。
正確に言うとこのゴルフ場は現在も名称を変更して存続している。
しかし、3年ほど前に民事再生を申請し、経営者が代わり運営スタイルも様変わりした。
ゴルフ会員権の預り金制度は、国の経済が右肩上がりの状況が続くときにはうまく適応するが、成長が止まった時には全く機能しないことを証明したのがザ・ナショナルCCであろう。
ザ・ナショナルCCようなゴルフ場の1つや2つは残して欲しかったのだが、やはり時代の変化には勝てない。