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聖火ランナー長嶋茂雄氏が国立競技場で見せた不滅の闘魂と執念の素晴らしさ!

長嶋&松井 ゴルフ名門コース

「人生を諦めるなんて楽しくない」「どんな困難とも闘い、目標に挑む」

2004年、侍ジャパンの監督としてアテネで五輪の舞台に立つはずだった長嶋茂雄さん

 

同年3月に脳梗塞で倒れオリンピック出場は幻と消えた。

重体から一命をとりとめ、血と涙がにじむ厳しいリハビリに取り組み日常生活に復帰した。

 

ON

 

冒頭に掲げたのは退院後、長嶋さんが口にした言葉だ。

天真爛漫の陰に隠していた、真の生きざまを見事に表現している。

 

そして、病魔と闘いつつ長嶋茂雄さんは、ついに東京オリンピックの主戦場である国立競技場へ立った。

目標だったオリンピック出場を聖火ランナーとして実現させたのだ。

 

現役時代『燃える男』として空前絶後の人気を誇った長嶋茂雄選手。

彼は後半生に入ってから度々病魔に襲われたが、決してくじけることはない。

 

単なるスーパースターを超えて、目標に向かい闘い続ける男。

人々に感動と勇気を与えることを生き甲斐とする男。

それが長嶋茂雄だ。

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長嶋茂雄氏の聖火ランナーに米大リーグもスペインメデアも大きく反応

長嶋・王・松井

日本全国を巡ってきた聖火が国立競技場へ到着した。

トーチを持って入場したのは、吉田沙保里さんと野村忠宏さん。

 

ともにレスリング、柔道でオリンピック三連覇の偉業を成し遂げ、計6個の金メダルを日本にもたらしたのだからすごい。

 

また、3月2日アテネから日本へ空輸された聖火を、宮城県航空自衛隊松島基地で受け取ったのもこの二人だった。

 

開会式の国立競技場内で二人から聖火を引き継いのが、長嶋茂雄さん、王貞治さん、松井秀喜さんのプロ野球界が誇るレジェンドで、国民栄誉賞トリオだった。

 

これにはテレビ前に陣取った日本全国のオリンピックファンも驚いたことでしょうが、米国MLBの公式サイトの反応が素早かった。

 

3人のプロフィールや日本球界での実績を紹介している。

長嶋さんについてはこのように書かれていた。

 

長嶋は1958年から74年までジャイアンツで17シーズンプレーした。

三塁手として生涯打率3割5厘で444本塁打を放った選手。

 

王さんはこのように紹介されている。

読売での名高いキャリアで868本塁打を放った日本の本塁打王。

現在、81歳の王は1959年から80年まで日本のプロ野球で22年間プレーした。

 

ヤンキースに在籍した松井さんは最も長文で紹介されている。

読売ジャイアンツで日本でのスーパースターとしてのキャリアを積んだ後、MLBで10年プレーし、『ゴジラ』はヤンキースファンのお気に入りになった。

左打ちの強打者は2009年にニューヨークでワールドシリーズチャンピオンを獲得し、ワールドシリーズMVPに選ばれた。

彼は2度オールスター戦に選ばれ、MLBのキャリアで175本塁打放った。

 

欧州で最も素早く反応したのは以外にも、野球とは縁が薄いスペインのスポーツ紙『AS』だった。

『日本のレジェンドに注目』と銘打って大々的に報じた。

 

特に長嶋茂雄さんに焦点を当てて記事は書かれている。

「友人である王氏と愛弟子の松井氏とともに、聖火リレーの一部を担った長嶋茂雄氏」

 

そしてこのことを

「開会式で日本が最も涙を流した瞬間」と表現した。

 

その理由として挙げたのが、日本で最も人気のあるスポーツがプロ野球であり、長嶋さんは野球界で最もファンに支持され、著名な選手のひとりだったと報じている。

 

また野球日本代表の監督として2004年にはアテネ五輪の舞台に立つはずだったが、同年3月に脳梗塞で倒れ、チームを離れざるを得なかったという、歴史的、個人的な背景にも言及している。

 

長嶋さんがTV画面に映って数時間後にはアップされた記事だから、野球に関心の薄いスペインでは異例のことでしょう。

 

同紙は聖火リレー後に長嶋さんが吐露した言葉も詳しく伝えてた。

「ようやく夢の舞台に立つことができました。観客はいないが、感情を抑えることができませんでした」

 

長嶋さんのリハビリを振り返った言葉まで丁寧に書いているから恐れ入る。

「凄まじいリハビリを行なった。麻痺は右手足に残り、しゃべることにも影響を及ぼしたが、1ミリでも手足を動かすためにできる限りのことをした」

 

さらに昨年は健康問題を抱えており、大会が1年延期されたことで聖火リレーに参加できたこと、自宅地下室でトレーニングを続け、ダイエットに努めたことも詳細している。

 

『長嶋さんは前回のリオデジャネイロ大会後には、最終聖火ランナーの有力候補に挙がっていた』

日本人のほとんとが知らないことをスペインから伝えていて、さらに驚きだ。

 

そしてまた、冒頭で紹介した長嶋さんの言葉もスペイン国民に向けて発信している。

「人生を諦めるなんて楽しくない」「どんな困難とも闘い、目標に挑む」

 

長嶋茂雄の軌跡 | 写真素材・ストックフォトのアフロ

 

開会式で聖火リレーを担当したプロデューサ―が、式典終了後に言っていたことが印象的です。

「長嶋さんは歩くことにこだわりました」

 

この言葉から推測できるのは、主催者サイドとしてはおそらく車椅子での登場を想定していたのではないでしょうか。

 

その提案を長嶋さん自身が断って、あくまでも自分の足を地に着けて1歩1歩進むことを望んだ。

これぞ戦う男、燃える男、永遠のエンターテイナー長嶋茂雄だ。

 

松井秀喜さんに支えられ真剣な眼差しで懸命に前を見つめ、ゆっくり歩を進める長嶋さん。

そして、何度も振り向き長嶋さんを気遣う王さん。

 

次の走者に聖火を渡し、ほっとしたのか長嶋さんは笑みを浮かべ、松井さん王さんも安心して一緒に微笑んでいた。

 

不自由な身体に鞭打って懸命に歩を進めた長嶋さんの真摯な表情とその後の笑顔は、全国民に勇気と希望を与えたことだろう。

 

彼はスーパースターのイメージをかなぐり捨てて、日本中のファンへ最後の最後まで戦う男を示して見せたのだ。

 

長嶋茂雄さんの素晴らしい生き様をもう一度したためたい。

「人生を諦めるなんて楽しくない」「どんな困難とも闘い、目標に挑む

長嶋茂雄氏の評判と人気・名門ゴルフ場で魅せた驚きの存在感!

現役引退、即ジャイアンツ監督就任。

6年間務めたジャイアンツ監督を辞め、この頃長嶋さんはいわゆる充電中だった。

 

ゴルフ好きの長嶋さんを千葉県と埼玉県のコース内で見かけたことはあったが、間近でしかも二人っ切りで話したのは初めてのことだった。

 

記憶が定かではないが、ザ・ナショナルCCの最終会員募集金額が1億円か1億2千万円だったような覚えがある。

 

1985年(昭和60年)のオープン当初は400万円で募集したが、爆発的なゴルフブームが訪れる前であり、決して順調とは言えず200名程度で打ち切っていた。

 

200名のうち数十人は政治家と財界の重鎮だったから、実質的なアクティブメンバーは100数十名だったようだ。

 

その後バブル景気と未曽有のゴルフ会員権ブームに乗って、4000万円、6000万円、8000万円の高額で、400名ほどの追加募集に成功した。

 

この超高額コースに筆者がメンバーとして在籍していたことがあるのだから、今振り返るに自分でも不思議である。

 

長嶋茂雄さんとはこのゴルゴ場で二人っきりで話す機会があったのだが、これがまた世評とはかなり違った印象を受けてやや驚きだった印象がある。

 

早朝の練習場は長嶋さんと筆者と研修生の3人だけだった。

「凄い!長嶋さん300ヤードは飛ぶんじゃないですか」

 

「いやー、240ヤードがいいところですよ。

こちらのメンバーさんですか?」

 

この日はザ・ナショナルCCの開場記念杯と銘打って、コース開場以来初めて行われるメンバーだけのコンペであった。

 

費用はすべてゴルフ場負担で、希望者は奥さんを同伴できた。

長嶋さんはどうやらオーナーの特別ゲストで参加するようだった。

 

ベージュのスラックスに緑のセーターを着こみ、Vネックから覗くゴルフウェアの白い襟からは、実にスマートでさわやかな印象を受けた。

 

少しの間会話の相手をしてくれたのですが、質問には面倒くさがらずきちんと答えくれて、とても気づかいのできる人だと感心したことを今でもはっきり覚えている。

 

しかし、それにしても長嶋茂雄は偉大である。

ジャイアンツの監督を辞任し、いわゆる充電中だったのだが、二人の会話を聞いていた20歳前後と思われる若い研修生が、直立不動で長嶋さんをじっと見つめていたのだった。

競技が終わりパーティが開催された。

明かりが落とされた会場へ、ゴルフ場オーナーが長嶋さん以下3人のゲストを従えて入場する。

 

スポットライトを浴びて、レストランの特設ステージへ登るのだが、長嶋さんだけが異様な存在感を放っていた。

 

他の二人のゲストがまるで霞んでしまうのだった。

一人は誰もが知っているゴルフの腕前シングルの超有名俳優で、もう一人は元女優の参議院議員なのだが、長嶋茂雄の前ではただの人同然なのだ。

 

招待客のほぼ全員の目が長嶋茂雄一人に注がれているような雰囲気で、会場は一時的に騒然となった。

 

筆者は朝の練習場で会っていたから、参加していることは分かっていたが他のメンバーの大部分は知らなかったのである。

 

この人気と注目度、そして存在感、長嶋茂雄はジャンルを超えて昭和が生んだ最大のスパースターだと、改めて認識させられた。

 

メンバーの表彰式の前にゲストの成績発表並びに表彰があったのだが、ここでもどよめきと感嘆があった。

長嶋茂雄氏71、もう一人の俳優さん72のスコアだから驚きである。

 

残りの女性ゲストのスコアは発表されなかったのか、記憶に残っていないのか定かではない。

ちなみに、この元女優の参議院議員は現在も国会で活躍中です。

偉大なる長嶋茂雄の話はまだまだ終わらない。

 

表彰式や挨拶も終わりパーティが懇談に移って間もなく、コンペで同伴したご婦人が突然こっちに向かって、

 

「長嶋さんが巨人の監督を引き受けるかどうか聞いてきて、今朝お話したんでしょ」

真剣な顔であった。

 

その日は友人と静岡県の会社社長ご夫婦の四人で回ったのだった。

聞くところによるとこの奥さん、長嶋さんの1年後輩で立教大学の3年間は長嶋茂雄の追っかけをしていたのだと言う。

 

こっちだってかなりの長嶋ファンであるが、この時点では巨人の監督に復帰すると言う情報は寝耳に水だった。

 

再三催促されたが、聞きに行ったところでまともな答えは得られるはずもない。

何とか受け流しておいたのであるが、後日ビックリすることになるのである。

 

ザ・ナショナルCCの開場記念コンペが終了してからしばらく経ち、長嶋茂雄追っかけのご婦人のことも忘れかけたころ、スポーツ新聞の見出しに目を奪われた。

 

長嶋茂雄氏、巨人監督に復帰!

一面にデカデカと写真と大きな文字が躍っていた。

長嶋茂雄の追っかけ恐るべし!と思わずにはいられなかった。

ザ・ナショナルCCで会った橋龍は好印象の紳士だった

当時大蔵大臣だった橋龍はダンディな男前で、世評と違って柔和な雰囲気だった。

プレー終了後のクラブハウスロビーで出会った。

 

精算しようとフロントへ向かったら、支配人が小走りにやってきて、

「橋本大臣の精算が終わるまで、ちょっと待って下さい」

と言うから、後ろを見たら橋竜がやってきた。

 

だが、一緒にプレーした誰かのカードがないようだった。

精算時フロントに提出する、スコアカードを入れる例のやつである。

 

橋龍は立ち止まりロッカールームの方を覗きながら、並んで立っている筆者と支配人にゴメン、とばかりに軽く手を挙げるしぐさをした。

 

間もなく若い娘さんが小走りでやって来るのが見えた。

「早くしなさい、あなたが来ないと他の方に迷惑がかかるから」

 

穏やかに言ってカードを受け取りフロントで精算を済ませ、玄関先で待っていた黒塗りの車へ乗り込んだ。

 

若い娘も一緒に乗ったのだったが、彼女は橋龍が精算している間、ロビーで待っている4,5人に対して無言でぺこりぺこりと頭を下げて、とても好印象を残して去った。

 

深々と頭を下げて見送った支配人が戻って来た。

思った通り、一緒に車に乗り込んだのは橋本龍太郎氏のお嬢さんだった。

 

「橋竜は秘書じゃなく自分でお金払うんだね、偉いよ」

支配人いわく、

「橋本大臣は、うちのゴルフ場では全く偉ぶったところはないですね」

 

橋本龍太郎氏はその後、内閣総理大臣まで登り詰めたのであるが、小泉内閣が断行した郵政民営化の反対派急先鋒であったがため、次の総選挙で自民党公認を得られず志半ばで政界引退を余儀なくされ、失意のうちに急逝した。

 

筆者はその時、ふと頭をよぎったのである。

後継者としてザ・ナショナルCCで一緒だった、あのお嬢さんを擁立すれば良いのにと

しかし、儚い望みは叶わなかった。

慶応大学医学部教授も絶賛したザ・ナショナルCC

ある日、済生会中央病院の知人医師から依頼され、このザ・ナショナルCCで慶応大医学部関係のコンペを開催することになった。

 

8組くらいでの開催だったと思うが、医学部の教授からインターン、そして北里病院の関係者も何人か参加していた。

 

プレー後のパーティーで、まず筆者を紹介していただき、優勝者などコンペ参加者から次々とお礼の言葉をいただいた。

 

その中で一番多かったのは

「こんなハイ・グレードなコースでコンペができて、本当にありがたい」

と言うものでした。

 

東京から2時間以上かかり遠かったが、慶応大学の医学部関係者が口をそろえて絶賛するほど、素晴らしいコースだったのです。

コースは杉林と雑木の森でセパレートされているから、林に打ち込むことはあっても、隣のホールへボールが行くことはない。

 

メンバーが少なく、ゲストだけでは基本的にプレーさせないから、ラウンド中は前後に人が見えないのだ。

 

ひとホールワンパーティーが基本である。

何度もプレーしているが、パー3のティーグラウンドで待たされことも、グリーン上のパットを残して後ろの組に打たせた記憶もない。

 

 

たまに他の組を見かけるのは、見通しの良いミドルホールやロングホールの300ヤード先か400ヤード先であった。

 

料金も高かったがコースコンデションは申し分なく、キャディも一流で食事も美味しかったし、あらゆる面で落ち着いていた。

 

キャディさんやコースの従業員から聞くと何でこんな人が?と思うようなメンバーも何人かいたようであるが、風呂場以外は至近距離で他人と接することが少ないコースであるから、トラブルも起きにくいのだ。

 

そして何よりも支配人が素晴らしかった。

いつも笑顔を絶やさないが、決してメンバーにおもねることなく毅然とした対応であった。

 

一度コーヒーを飲みながら話しを聞いたのだが、彼の行動原理は従業員の立場になって判断することを優先していたように感じられた。

 

このようなコースだからお忍びで来るカップルなどは珍しくはなかったし、クラブハウス内では有名人とすれ違うことが度々だった。

筆者は冒頭、かつてザ・ナショナルCCがあったと記した。

正確に言うとこのゴルフ場は現在も名称を変更して存続している。

 

しかし、3年ほど前に民事再生を申請し、経営者が代わり運営スタイルも様変わりした。

ゴルフ会員権の預り金制度は、国の経済が右肩上がりの状況が続くときにはうまく適応するが、成長が止まった時には全く機能しないことを証明したのがザ・ナショナルCCであろう。

 

ザ・ナショナルCCようなゴルフ場の1つや2つは残して欲しかったのだが、やはり時代の変化には勝てない。