井上誠一は紛れもないゴルフ場設計の第一人者であり、巨匠です。
この人のゴルフ場造りにかける情熱は、それはもう尋常ではありませんでした。
彼が設計した主なコースを紹介します。
日本を代表する名門コースがズラリと並んでいます。
井上誠一が設計したゴルフ場は名コースがズラリ
ゴルフ場設計者の巨匠、井上誠一氏は明治41年8月11日に東京・赤坂に生まれました。
父は有名な眼科医であり、井上も一時は眼科医を目指したと言われています。
ゴルフ場デザイナーに転じ、日本の第一人者として北は北海道から、南は九州鹿児島まで多くのコースを手がけましたが、昭和56年11月26日入院していた熱海温泉病院で73歳の生涯を終えました。
没後40数年を経て、今なお井上誠一設計のゴルフ場巡りツアーが頻繁に企画されるなど、その人気と名声は衰えることを知りません。
井上誠一が設計した主なカントリークラブ
井上誠一はコース設計を引き受けると、元の地形を活かして自然との調和を図り、なおかつ各ホールに個性を持たせてるべく全精力をつぎ込みます。
常に、この難しいコンセプトに腐心し、挑戦し、成し遂げたのです。
彼が情熱を注いだゴルフ場はいずれも『名門』と呼ばれ、上品と優美、優雅が備わっているのはこのためです
さらに、あらゆるレベルのゴルファーが楽しめるよう、いたるところに工夫を施しました。
初心者には優しく、上級者には高い戦略性を求めるのが特徴です。
したがって、井上の造ったコースは誰でも楽しめ、何度回っても飽きないのです。
東北・北海道
✔札幌ゴルフ倶楽部輪厚コース(北海道)こちらも!
✔札幌ゴルフ倶楽部由仁コース(北海道)
✔室蘭カントリー倶楽部(北海道)
関東甲信越・静岡
✔日光カンツリー倶楽部(栃木県)
✔那須ゴルフ倶楽部(栃木県)
✔烏山城カントリークラブ(栃木県)
✔大利根カントリークラブ(茨城県)
✔大洗ゴルフ倶楽部(茨城県)
✔スターツ笠間ゴルフ倶楽部(茨城県)
✔龍ヶ崎カントリー倶楽部(茨城県)
✔霞ヶ関カンツリー俱楽部(埼玉県)
✔武蔵カントリー倶楽部笹井コース(埼玉県)
✔武蔵カントリー倶楽部豊岡コース(埼玉県)
✔東京よみうりカントリークラブ(東京都)
✔よみうりゴルフ倶楽部(東京都)
✔鷹の台カンツリー倶楽部(千葉県)
✔大原・御宿ゴルフコース(千葉県)
✔浜野ゴルフクラブ(千葉県)
✔鶴舞カントリー倶楽部(千葉県)こちらも!
✔湘南カントリークラブ(神奈川県)こちらも!
✔戸塚カントリー倶楽部(神奈川県)
✔赤倉ゴルフコース(新潟県)
✔葛城ゴルフ倶楽部(静岡県)
✔天城高原ゴルフコース(静岡県)
中部・北陸
✔愛知カンツリー倶楽部(愛知県)
✔春日井カントリークラブ(愛知県)
✔南山カントリークラブ(愛知県)
✔桑名カントリー倶楽部(三重県)
✔伊勢カントリークラブ(三重県)
近畿
✔瀬田ゴルフコース東コース(滋賀県)
✔瀬田ゴルフコース北コース(滋賀県)
✔枚方カントリー倶楽部(大阪府)
✔西宮カントリー倶楽部(兵庫県)
中国・四国
✔新山口カンツリー倶楽部(山口県)
九州・沖縄
✔いぶすきカントリークラブ(鹿児島県)
✔佐賀カントリー倶楽部(佐賀県)
井上誠一が増改築に関わったゴルフ場
✔茨木カンツリー倶楽部
✔東京ゴルフ倶楽部
他多数。
霞ヶ関カンツリー俱楽部は東・西コースともに井上誠一の設計!
東京オリンピックのゴルフ会場で有名になった、霞ヶ関カンツリー倶楽部。
競技が開催された東コースが埼玉県最初のゴルフ場として1929年にオープンし、約3年後に西コースがオープンします。
そして、西コースの造成には井上誠一が設計助手として参加しました。
これが井上誠一のゴルフ場設計にかかわった、第1号となります。
霞ヶ関カンツリー俱楽部の西コース設計に参加した時、井上誠一は東コース改修で日本を訪れていたイギリスのアリソンと対面しました。
井上は、彼から大きな影響を受けます。
その仕事ぶりや斬新なデザイン、前衛的な発想に大いなる感銘を受けたのです。
後年井上は、その時の出会いがゴルフコース設計に情熱を燃やすきっかけになったと語っています。
師匠は誰かと問われ「そうですね、アリソンです」とも答えています。
戦後の第一次ゴルフブームが起きるころには、アリソンと並び称されるほど日本では有名な設計者となっていました・
その後、井上は数々の名コースを日本中に誕生させるのですが、アリソンバンカーを配置するのが特徴の一つとなっています。
そして戦後、霞ヶ関カンツリーは米空軍によって摂取されますが、返還後に東、西コースともに井上誠一の設計により事実上、造成しなおされました。
故に、霞ヶ関カンツリー俱楽部36ホールは、井上誠一の設計と言えるのです。
井上誠一の名言と信念!ゴルフ場設計に燃やした情熱
【写真は札幌ゴルフ倶楽部由仁コース】
「自然の声に耳を傾ける」
井上誠一がゴルフ場を設計するとき、徹底的にこだわった言葉です。
同時にこのようにも言っています。
「未開発の山野の自然を可能な限り残して、美しいコースを造る」
この二つの言葉に、井上誠一の設計哲学を見ることができます。
ゴルフ場の設計を引き受けると、彼が最初にやることはいつも決まっていました。
造成予定地にじっと佇み、自然の声に耳を傾ける。これを必ず実行します。
工事が始まると双眼鏡を持って現場を訪れます。
図面に載っていない樹木があると、現場の責任者に「この木を切ってはいけない」と念を押しました。
オーナーの独断で設計にない人工物など造ったら容赦しません。
すぐに取り除くよう厳命します。
もし、それで言うことを聞かなければ、二度とその造成現場に足を運ぶことはなかったと伝えられています。
自然を守るとはいっても、ゴルフ場の造成は大地を削る行為です。
たいして必要性のない人工物など美観を損ねるだけ、ということでしょう。
信念と自然への敬意を決して忘れなかったのです。
井上はこのようにも語っています。
「プランニングとデザイニングというのは別なんです。」
「プランニングがしっかりしていなければ、いくらデザイニングがよくても、いいコースにはならない。」
この言葉は何を意味するかと言えば、彼はクラブハウスの位置や向きまで頭に入れてコースを設計していたのです。
それだけにとどまりません。
進入路のとり方や駐車場の位置、収容台数まで計算したうえで設計に取り組んでいただから、かなり緻密な人だったのです。
例えば、井上は自身の設計である東京よみうりカントリー倶楽部に対して不満を持っていました。
今は取り壊されて存在しませんが、オープン当初のドーム型クラブハウスに大きな不満があったようです。
「私は気に入らないんです。」とはっきり言っていました。
井上誠一によるとあのドーム型は、外見も内部も決してクラブハウス向きではないといっています。
大リーグ最初のドーム球場、アストロドームを模倣したのですが、雨漏りはするし、冷暖房効果も最悪だったようです。
そもそも、あの場所にクラブハウスを建てること自体がコンセプトに反すると、井上は反対だったのです。
だが、読売のオーナーだった正力松太郎はゴルフを全く理解しておらず、取り巻きの意見を優先してしまったのだといいます。
プランニングを大事にする井上誠一には、忸怩たるものがあったのです。
クラブハウスの位置にまで細かくこだわった井上誠一だから、あれほど多くの名コースを遺せたのでしょう。