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全米オープンゴルフ選手権とは?歴史・最多優勝者・主な会場・日本選手の最高成績まとめ

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ゴルフ界で最も格式高い大会のひとつ、全米オープンゴルフ選手権(U.S. Open)

 

プロ・アマを問わず広く門戸を開きながらも、世界屈指の難コースと厳しいセッティングで知られ、真の実力が問われる大会です。

 

ここでは、全米オープンの成り立ちから、歴代最多優勝者、主な開催コース、日本人選手の快挙、そして語り継がれる伝説の名勝負まで、徹底的に解説します。

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全米オープンゴルフ選手権の歴史

全米オープンは、1895年に第1回大会が開催され、たった11人の選手が9ホールを2周する形で争いました。

 

主催はアメリカゴルフ協会(USGA)。

以来、120年以上の伝統を誇り、毎年6月に開催されるのが通例です。

 

「最も厳しいテスト」と呼ばれる難易度と、優勝スコアがイーブンパーかそれ以下になることもしばしばあるコース設定が、実に特徴的です。

全米オープンゴルフ選手権の最多優勝&複数回優勝者

●最多優勝(4回)

*ウィリー・アンダーソン(1901, 1903, 1904, 1905)

*ボビー・ジョーンズ(1923, 1926, 1929, 1930)

*ベン・ホーガン(1948, 1950, 1951, 1953)

*ジャック・ニクラウス(1962, 1967, 1972, 1980)

 

この他にも、タイガー・ウッズ(3勝)、ヘール・アーウィン(3勝)など、複数回優勝者が名を連ねています。

 

勝つだけでなく、複数回制するのはゴルフ史に残る偉業とされています。

全米オープンゴルフ選手権の主な開催コース

全米オープンは、アメリカ各地の名門コースで開催されます。

中でも有名な舞台は以下の通りです。

 

*ペブルビーチ・ゴルフリンクス(カリフォルニア州)

*オークモント・カントリークラブ(ペンシルベニア州)

*シネコック・ヒルズ・ゴルフクラブ(ニューヨーク州)

*ウィングドフット・ゴルフクラブ(ニューヨーク州)

*メリオン・ゴルフクラブ(ペンシルベニア州)

 

これらのコースは「鬼のように難しい」と称されることもあり、精密なショットと忍耐力が要求されるコースばかりです。

全米オープンゴルフ選手権での日本人選手最高成績

日本人選手で全米オープンにおいて最高成績を収めたのは、青木功選手です。

そして、松山英樹選手と丸山茂樹選手が続きます。

 

1980年 青木功選手  単独2位

2002年 丸山茂樹選手 4位タイ

2017年 松山英樹選手 2位タイ(エリンヒルズ)

 

ウィスコンシン州エリンのエリンヒルズで開催され2017年大会の松山選手は、最終日も優勝争いに絡みながらの堂々たる2位タイという快挙。

 

松山選手は最終日に66(−6)のスコアをマークしました。

これは当日のベストスコアで、トータル276の−12を記録。

ブライアン・ハーマン選手と並んで2位タイに入りました。​

 

この活躍により、松山選手は世界ランキングで2位に急上昇。

日本人男子選手として過去最高位を記録しました。​

 

その後、2021年のマスターズ・トーナメントで優勝し、日本人男子選手として初めてメジャー大会を制覇しました。​

 

2017年全米オープンの2位タイという成績は、松山選手のキャリアにおいてとても重要な転機となったのです。

1980年全米オープン|青木功とジャック・ニクラウスの死闘

死闘の舞台はバルタスロール・ゴルフクラブ(ローワーコースでした。

1980年6月、第80回全米オープンが開催されます。

 

この大会は、当時すでに「帝王」と呼ばれていたジャック・ニクラウスにとって、通算4度目の全米オープン制覇がかかる重要な大会でした。

 

一方、日本から挑戦したのが、33歳の青木功

まだ日本選手がメジャー大会で優勝争いを演じるなど、夢物語とされていた時代です。

 

けれども彼は臆することなく、堂々と世界最高峰の舞台に立ったのです。

大会序盤からニクラウスと青木は静かに火花を散らします。

 

初日、ニクラウスは70のパープレー、青木は69と、まずは順調なスタートを切ります。

2日目に入り、ニクラウスが68とスコアを伸ばす一方、青木も踏みとどまり上位をキープ。

 

両者は週末に向けて、徐々にギャラリーの注目を集め始めます。

そして迎えた決勝ラウンド。

 

ニクラウスは、持ち前のパワーと冷静なゲームメイクで着実にスコアを伸ばし、54ホール終了時点で青木とともに首位に立ちます。

 

最終日は今や伝説となったデッドヒートが繰り広げられます。

1980年6月15日が最終日。

 

バルタスロールのローワーコースは、厳しいピンポジションと硬いグリーンで歴戦の選手たちを苦しめます。

 

しかし、その中で青木とニクラウスだけが次元の違うゴルフを展開したのです。

ニクラウスは前半から冷静にバーディを積み重ね、青木も一歩も引かずに追走。

 

14番パー3では青木がきれいなショットをピンそばにつけてバーディ。

15番ではニクラウスが絶妙なパットでバーディ。

 

二人の間には、たった一打の差しかありません。

そして迎えた運命の18番パー5。

 

ニクラウスは見事なセカンドショットでグリーンを捉え、イーグルチャンスにつけます。

一方、青木も果敢に攻め、バーディチャンスを作ります。

 

先にパットを打ったのはニクラウス。

長いイーグルパットを決め、18番ホールは地鳴りのような歓声に包まれました。

 

青木も続くバーディパットを決めましたが、最終的にニクラウスがトータル272の−8。

青木はトータル274の−6でした。

 

2打差で、ジャック・ニクラウスが優勝を飾り、稀に見る激闘に終止符を打ちます。

 

イーグルパットで優勝を決めたジャック・ニクラウスが、熱狂するギャラリーに向かって「まだ青木のパットが残っているので静かに!」と合図を送る姿がとても印象的でした。

「世界を震撼させた青木」の快挙

結果は惜敗でしたが、この大会での青木功の戦いぶりは、アメリカメディアにも驚きをもって伝えられました。

 

アイ・アム・アオキ(I am Aoki)」という言葉が現地ギャラリーの間で流行。

 

ニクラウスも「彼は本当に素晴らしいゴルフをした。間違いなく世界レベルのプレーヤーだ」と絶賛。

 

そして、日本のゴルフ界にとって、世界と戦える選手が誕生した歴史的瞬間となりました。

青木自身は「悔しい気持ちはあるが、全力を尽くした。あの日のプレーは誇りだ」と語っています。

 

この大会での経験が、後に彼をハワイアンオープンでのPGAツアー初優勝へと導きます。

そして、日本のプロゴルファーが世界へ挑む扉を開いたのでした。

 

1980年の全米オープンは、ジャック・ニクラウスの優勝で幕を閉じましたが、青木功の堂々たる2位は日本ゴルフ史に永遠に刻まれた。

 

最終日の死闘は、記憶にも記録にも残るラウンドとなったのです。

この死闘を見た、当時の有名評論家が言いました。

 

「もうすぐ、日本は経済でアメリカを抜くんだから、ゴルフくらいはアメリカに勝たせてやろうよ。

青木は二位でよかったんだよ」

 

今の日本ではとても考えられない言葉です。

でも、確かにそんな時代もありました。

全米プロ選手権の歴史に残る死闘&ドラマチックな結末

伝説の「18ホールプレーオフ」

全米オープンでは最終日を終わって同点の場合、翌日に「18ホールをラウンドするプレーオフ」の伝統がありました。

2008年大会では、タイガー・ウッズロッコ・ミーディエートが激闘。

ウッズは膝の大怪我を抱えながらもプレーし、プレーオフの末に劇的な優勝を遂げました。

ベン・ホーガンの奇跡のカムバック

1949年、交通事故で瀕死の重傷を負ったベン・ホーガンは、1950年の全米オープン(メリオン)で奇跡の復活優勝。

「ホーガンの一歩」と呼ばれる伝説のシーンは、今もゴルフ史に刻まれています。

劇的な終盤逆転劇

1999年、ペイン・スチュワートは最終ホールで劇的なパーパットを沈め、フィル・ミケルソンを1打差で下して勝利。

そのわずか数か月後にスチュワートは飛行機事故で命を落とし、この勝利はより一層感動的なものとなりました。

まとめ

全米オープンゴルフ選手権は、ゴルフ界で最も権威と難易度を誇る大会のひとつです。

120年以上にわたる歴史の中で、数々の名勝負、幾多の伝説が生まれました。

 

最多優勝記録を持つ名プレーヤーたち、ペブルビーチやオークモントといった名門コース、そして青木功・松山英樹といった日本選手たちの挑戦は、多くのファンの記憶に刻まれています。

 

特に、1980年大会での青木功と帝王ジャック・ニクラウスの死闘、2017年大会で松山英樹が2位に食い込んだ快挙は、日本ゴルフ史における大きな金字塔です。

 

厳しいセッティングと過酷なコンディションの中、真の実力だけが試される全米オープン。

これからも新たなドラマが生まれ続けることでしょう。