「生きづらい世の中だ」なんて言葉をたまに聞くけど、そんなことを感じている人は、よほどの暇人か、潔癖症か、あるいはかなりのジコチュウだろう。
思考能力が劣っているのかも知れないし、プライドがなさすぎるのかも知れない。
「生きづらい世の中」には、「他人のせい」の響きがある。
『生きづらくしているのは自分だ』と認識できないレベルの理解力なのだろう。
プライドある人は、社会や政治など他者のせいにはしない。
まあ、どちらにしても『自業自得』や『天網恢恢疎にして漏らさず』の言葉とは無縁の人だ。
世の中には汚いもの、不潔なもの、醜悪なものがあふれているから、潔癖症の方への処方は残念ながら分からない。
だが、そのほかの方はちょっと思考を変えるだけで、たちまち「生きづらい」なんて言葉を忘れてしまうだろう。
東大とハバード大をハシゴしなければならないほどの膨大な知識は必要ない。
ある程度の知識と見識があれば十分だ。
世界の指導的立場にいる者は、適当な人だらけだ。
特に国の首脳、国際機関のトップ、世に名を知られた著名人などにいい加減な人間が多い。
ちょっとだけ頭をひねってみよ。
彼らの独善と偽善、適当さが見えてくるから。
少しの知見を縦横に活用すれば、世界中の独善ドラマ、偽善演劇がをただで好き放題みられる。
これほど面白いものはない。
いつかは必ず、自分自身に報いとして返ってくることも知らずに演ずる欺瞞劇。
『天網恢恢疎にして漏らさず』
そう、傲慢、欺瞞はいずれその身を亡ぼすのだ。
それとは知らずに実に暢気なものだ。
この劇場の存在を知るとテレビドラマなど、あほらしくて見ていられない。
高い入場料を払ってディズニーやUSJに行く理由も、たちまち消え失せるだろう。
地球上の人類を欺いて名声や富を得ようとする輩を観察すれば、きっとあなたの方が正直で、生真面目で、人間的にもはるかに優れていると気づくかも知れない。
いや、是非ともその事実に気づいてもらいたいものだ。
世界のトップや著名人には、どれほどいい加減な奴が多いのか、それを暴く旅に出よう。
国連事務総長グテーレスさん、今すぐその座を女性に譲るべし!
3月8日は国連が定めた『世界女性デー』だ。
その式典を翌日に控えた3月7日、国連事務総長のアントニオ・グテーレスは訴えた。
「女性の権利は攻撃されている。われわれは反撃しなければならない」。
「世界は進歩するどころか、逆戻りしようとしている。とてもこれを座視するわけにはいかない」と主張した。
デジタルツールは大きな可能性に満ちているが、一方で女性の声を封じ込め、偏見を増幅させ、嫌がらせを助長していると、インターネットの危険性を指摘する。
「インターネット上の暴力は現実の暴力へとエスカレートしている。
平等な権利が主流になるどころか、われわれは男性優位主義と女性蔑視が主流になる光景を目撃している」
まあ、ここまでは良しとしよう。
現実にそのような傾向があることは事実なのだから。
だが、グテーレスはこのように締めくくった。
男女平等は単に公平さの問題ではないと強調しつつ、
「これは、誰が会議の席に着き、誰が締め出されるかという権力の問題だ。
また、不平等を助長するシステムを解体し、誰にとってもより良い世界を確保するという問題だ」
もう一度書きます。
念のため。
「誰が会議の席に着き、誰が締め出されるかという権力の問題だ。」
これを分かりやすく翻訳すれば「男が会議のトップに座るから、女がその座から締め出される」ということだ。
グテーレスさん、男のあなたが国連事務総長という権力の座にしがみついているから、女が一人権力から締め出されているのではないですか。
有言実行。
率先垂範。
今すぐ、あなたは事務総長の椅子を『女性』に譲ってください。
本気の本気で「男女平等」を叫ぶのであれば。
譲る気などサラサラないだろうなあ。
「言うだけ」「訴えるだけ」「呼びかけるだけ」が仕事だと思っているのだから。
そもそも国連は1945年の設立当初から男女平等を宣言している。
国連憲章の第1条で
「国際的な平和と安全を維持するために、国際協力を促進し、すべての人々の権利と基本的自由を尊重すること」と高らかに謳っている。
男女平等もその一環として位置づけられているのだ。
1979年には「女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(CEDAW)」が採択されてもいる。
この条約で国際的に女の権利と男女平等を強化するための重要な枠組みが整えられたと、世の識者たちは言う。
だが、国連事務総長を務めた9人すべてが男ではないか。
男女平等とは言い難い。
現事務総長アントニオ・グテーレスさんが敬愛してやまない『女性』は一人もいなのだから、実に不思議だ。
「自分は事務総長の座にとてつもない魅力を感じ、執着している。
任期が切れるまでは誰にも譲らん」
まあ、平凡なおじいさんですから、きっとそう思っていることだろう。
けれども、本気で『誰かが座ると誰かがはじき出される権力の問題』であると考えるなら、残りの任期で次期事務総長を『女』に譲ることに血道を上げて欲しいものだ。
せめてそれを実現させたら、君の本気度を認めてやろう。
でも、「そんな気は、サラサラない」と顔にかいてあるなあ。
何せ、言うだけが仕事なんだから。
「誰一人取り残さない」ほど人類を舐め切った標語もない!
「誰一人取り残さない」は、国連が掲げる持続可能な開発目標・SDGsの理念なのだという。
SDGsは2015年9月の国連サミットで採択され、2030年を達成期限とする国際目標のことだ。
『持続可能な開発目標』が達成されたならば素晴らしいことだ。
ケチをつける気など毛頭ない。
ChatGPTによる持続可能な開発目標・SDGsの理念について下記に引用する。
【「誰一人取り残さない」のポイント】
・すべての人のための目標の達成を目指す
・最も脆弱な立場の人々に焦点を当てる
・貧困や格差をなくすこと、将来の世代も限りある資源を活用できるように開発を進めることを目指す
・気候変動、防災、開発のための融資に関して事業を進める
【「誰一人取り残さない」の具体例】
・難民や国内避難民、無国籍の人々が取り残されることのない開発計画を重視する
・最も貧困な状態に置かれている人々、子ども、若者、障害のある人、エイズと生きる人、高齢者、住民、難民、国内避難民、移民などへの支援を優先する
しかし「誰一人取り残さない」とは、よく言えたものだ。
この傲慢さには驚くばかりだ。
自分たちの価値観、おそらくキリスト教と白人の影響が大きいと思われる価値基準を、そのまま地球上の全人類に押しつけているのだから胸クソが悪い。
地球には、まだまだ未開発な部分が多い。
自分たちが暮らしている足元の地下深くのことなど、誰も知らない。
人類のことだってそうだ。
この地上には、文明人が実態を掌握できない少数民族がたくさん存在する。
そして、そんな彼ら少数民族は文明を頑なに拒絶する。
国際連合などクソクラエなのだ。
つい数年前にそれを象徴するような出来事があった。
衝撃的なニュースが世界を駆け巡ったではないか。
それはインドのアンダマン・ニコバル諸島で起こった。
アンダマン・ニコバル諸島の一つの島に『センティネル族』が住んでいる。
センティネル族は外部の文明と一切の接触を拒絶し、孤立した生活を営む少数民族だ。
彼ら一族は外部の者に対して、非常に攻撃的であることでも知られている。
だから、地元の人々は彼らの住む離島には一切近寄らない。
2018年11月の事だった。
アメリカ人伝道師ジョン・チャウがセンティネル族の島に上陸しようとした。
地元民は強く反対したが、キリスト教を伝えるためだといって船を用意させた。
だが、地元民の危惧は現実のものとなった。
上陸を試みた数分後、彼はセンティネル族と思われる島の住民によって殺害されたのだ。
伝道師を島に降ろした船頭は、一目散に逃げ帰り難を逃れた。
この事件はセンティネル族が外部に対して、きわめて警戒心の強いことを再認識させたのである。
センティネル族は数千年にわたり外部との接触を避けてきたため、彼らの生活様式や言語、文化は実に独特だと言われている。
この事件をきっかけに、インド政府はセンティネル族の保護を目的として、彼らの居住地域への立ち入りを改めて禁止している。
外部との接触をかたくなに拒み続ける民族が、この地球上にはいるのだ。
センティネル族は警戒心が強く攻撃的だとは言っても、近寄らなければ彼らから攻撃してくることはない。
彼らの生活を乱さないことも多様性の尊重だ。
「多様性」を叫びながら、何でも自分たちの価値観に従わせようとするから無用な争いが起きる。
国連が掲げる『誰一人取り残さない』は、センティネル族のような独自の文化と価値観を持つ少数民族をもターゲットにしているのだろうか。
そうだとしたら、あまりにも傲慢であろう。
それとも、国連という村社会に閉じこもっている人々は世間に疎いから、自分たちと違う価値観の存在を知らないだけなのだろうか。
否、自分たちと価値観の違う少数民族など『人類』のうちに入らないと考えているのかもしれない。
怖い。