豪快かつ繊細な角さんこと田中角栄元総理大臣。
彼は演説の天才でもありましたが、この人ほど多くのエピソードを遺した政治家は他にいません。
メンバーだった名門・小金井カントリー倶楽部にも、やはり多くのエピソードを遺していますが、そのいずれもがけた外れでした。
また、大蔵大臣就任挨拶で官僚がどよめいたスピーチとは?
日中国交正常化交渉で魅せた驚愕のエピソードとは?
その伝説に、ぜひあなたも触れてみてください。
人、カネ、権威のあるところにエピソードは尽きることなく、事件も起きる。
ゴルフ場と政治は話題の宝庫でもあります。
元ゴルフライターが10数回にわたり足を運んだ小金井カントリー倶楽部は、接客日本一の称号を戴き角さんがもっとも愛したゴルフ場です。
あなたに『角さん』の尋常ならざる凄さをお伝えしましょう。
小金井カントリー倶楽部の内紛や小泉純一郎なども絡め、とっておきの話をお届けします。
田中角栄が大蔵大臣就任挨拶で披露した伝説のスピーチとは?
田中角栄の小金井カントリー倶楽部における破天荒な話題の前に、彼の真骨頂とも言うべきスピーチを紹介したいと思います。
きっと、優秀なあなたにも学ぶべき点があり、今後の参考になるかと思いますので、どうぞしばしのお付き合いをお願いします。
田中角栄は1962年(昭和37年)7月の第2次池田勇人内閣改造人事で、大蔵大臣に就任します。
44歳での就任は、もちろん最年少記録です。
大蔵省のキャリア官僚は10人中9人が東大卒と言われる、日本一のエリート集団。
財務省と呼称が変わった現在でも、キャリアの7~8割は東大卒が占めます。
さて、大臣に指名され早速、霞ヶ関の大蔵省(現・財務省)に登庁した角栄は、講堂に職員一同を集めて就任の挨拶に臨みました。
このスピーチがスゴイのだ!
「44歳の若造が」と内心なめていた幹部連中もド肝を抜かれたのです。
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である!
諸君は日本中から集められた秀才代表であり、金融と財政の専門家がそろっている。」
「私は金融・財政の素人だが、これまでトゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。」
角栄節は続く。
「我と思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしいと願う。忌憚なく何でも言ってくれ!
上司の許可を得る必要はない。できることはやる!できないことはやらない!」
最後の一言に会場はどよめいた。
「しかし、全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上!!」
東大出のエリートが集う前で、堂々と尋常小学校卒を宣言したのです。
自分を飾ることなく、丸裸になって真正面から人と向き合う。
周囲の人々を圧倒した彼の凄みは、捨て身ともいえるこのような生き様にあったのです。
そして、「全責任は自分が取る」で締めくくる胆力。
部下を前向きにさせるには十分過ぎる一言です。
この短いスピーチは、見事に大蔵官僚の心をとらえたのでした。
田中角栄は、それからちょうど10年後の1972年(昭和47年)7月6日、内閣総理大臣に就任します。
角さんの偉大さを『官僚操縦術の巧みさ』抜きに語ることはできません。
44歳の若さで大蔵大臣に就任した当時から、その術をすでに身についていたのだから、やはり天才だったのです。
田中角栄が小金井カントリー俱楽部に残した伝説と仰天エピソード!
角さんはホームコース小金井CCでの、金の使い方が尋常ではなかった。
コースで働いている人に会うと、それらすべての人に一万円札を配るのだから凄い。
キャディさんは当然のこと、コースの各ホールで樹木や芝の手入れをしている人、売店の人、ロッカールームでカギを管理する人、風呂場の脱衣所をかたずける人、食堂で働くウェートレスさんから厨房の人々までである。
これでは角栄を嫌いになる人はいない。
昭和の”天才”はまた、名門ゴルフ倶楽部小金井カントリー倶楽部きっての”伝説的名物男”でもあった。
角さんと生前親交があり、小金井CCで一緒にラウンドしたこともある知人が、
「あれじゃ、いくらお金があっても足りないよ」
ため息交じりの言葉から複雑な思いが感じ取れた。
角さんは普段からせっかちで有名でしたが、ゴルフのプレーでもそのせっかちぶりはいかんなく発揮されたようだ。
田中角栄と親交が厚く、同じ小金井CCのメンバーだった政治評論家の藤原弘達が、ある講演で述べていたことが印象深い。
藤原弘達の弁によると角さんの行動は次のようだった。
田中角栄が名門・小金井カントリー俱楽部のメンバーとなったのは、日本の総理大臣就任した直後であった。
公務の合間を縫ってプレーに行くときはほぼ平日で、事前に必ず支配人に予約の連絡が入る。
支配人は当日、小金井CCのイン、アウトどちらか9ホールをすべて空けて、角さんのラウンドに備えるのだった。
せっかちな角さんは3人で回ることが多く、1mのパットでもOK、オッケーと言いながらさっさと次のホールへ急ぎ足で行ってしまうのだそうな。
スコアは一切つけず、ティーショットは常に自分が最初に打っていた。
深いラフや林に入ったボールを確認に行ったキャディさんが1分も探そうものなら、
「ロスト、ロスト」
と言って次のボールを用意させる。
こんな調子だから6分間隔なんてとんでもない、2、3ホール空けてもすぐに前の組に追いつてしまうのだから、名門コースを9ホール空けたのだった。
藤原弘達曰く
「まあ、あの急ぎ足は健康にはいいな。
ある意味、最強のゴルファーだよ、ワッハハハ・・・・・・」
超一流の人間ほど何でもやるときは一生懸命にやる。
角さんもレッスン書を読み漁ったり、東京・赤坂の練習場でかなり打ち込んでいたのだと言う。
ともかくせっかちでプレーが早い角さんだから、朝早いスタートだと午前中に軽く1ラウンド回ってしまうのであった。
時間があるときは当然のように小金井カントリー倶楽部を2ラウンド回っていた。ある。
「あんなタフな男は見たことがない」
と感心しながら藤原弘達は著書で角さんのこんな話も紹介している。
「小金井で2ラウンドやって、赤坂か神楽坂あたりで一杯ひっかけ、夜1ランウドやると丁度いい。
ぐっすり眠れるんだよ」
一日で3ラウンドは確かにタフです。
田中角栄は演説の名人!若い頃の小泉純一郎は実に小さい男だった!
角さんこと田中角栄は演説の天才でした。
演説によって人を引き付ける力は、他の追随を許さないものがありましたね。
それに比べて、若い頃の小泉純一郎は実に小物。
ビルの新築パーティでは田中派の悪口ばかり。
その話はあとで詳しく触れます。
まずは角栄の演説のどこが優れていたのかを見ていきましょう。
パーティー会場のステージへ上り、
「私が田中角栄です」
というだけで万雷の拍手が起きるから、もう誰もかなわない。
そして、必ず聴衆から声が飛びます。
「よっ!」「待ってました」などですね。
まるで時代劇の芝居小屋を彷彿させるような雰囲気を一瞬のうちに創り出してしまうのですから、これはもう、本当にすごいものがありましたよ。
雰囲気だけではありません。
話す内容も実に巧みに計算しつくされているのです。
例えばC議員の大臣就任パーティーだったとします。
まず、C議員にお祝いの言葉を述べ、本人を褒めたたえることを忘れません。
そして、そのあとに角栄演説の神髄があります。
日本の経済状況や置かれている国際情勢について実にわかりやすく、簡潔に説明します。
次は、必ずC議員の地元の事情に触れます。
「彼の地元はA工業やB産業の工場があって製造業が盛んです。もう少し輸出を増やせば、さらに地元経済は活性化する。地元のためにそれができるのはC議員しかいません」
このように述べた後、議員の奥さんが出席していると必ず奥さんのことをほめることも忘れません。
そして、もう一度議員本人の話に戻り、今後の活躍に期待する言葉を述べるのです。
最後に今後の日本はどうあるべきかを訴えて、演説を終える。
この種のパーティーは時間が限られているうえ、ゲストが多いので角さんといえども演説の持ち時間は精々5分程度。
その短い制限時間内にこれだけの内容をしっかりとまとめて盛り込み、さらにいろんな人への気遣いも忘れない。
これは天才以外の何者でもありません。
独特のダミ声ではありますが、語尾がしっかりしていて話し方がとても力強く、間の取り方がまた抜群でした。
聴衆が聞きほれてしまうのは当たり前です。
若かりし小泉純一郎の演説は聴衆の嘲笑を買った?
さて、場所は違うが角さんの演説と比較して「なんだ、この男は」と思わずにはいられなかった若手議員がいました。
まだ40代半ばだった小泉純一郎です。
あるゴルフ関係企業の本社ビル新築パーティーでのことでした。
当時の福田派若手有望議員だと紹介されて彼は挨拶に立ちました。
話す内容は同じことの繰り返しで実につまらない。
「我が派はクリーンです。他派閥の金権政治とは違います」
このようなことを何度も繰り返すだけで、新築されたビルのお祝いを述べることもなければ、社長や会社を讃えることも一切なしですから、口あんぐりです。
パーティー会場のあちらこちらで、失笑とも嘲笑ともつかぬ笑いが漏れていました。
一緒にゲストとして呼ばれていた派閥の親分、福田赳夫のご機嫌を取るのに精いっぱいだったのでしょうか。
後年、その男が総理大臣になるのだから、人や人生とは分からないもの。
最後まであきらめてはいけません。
確かに、総理になった前後の小泉純一郎はワンイシューを操り、大衆を引き付けていました。
成長したことは間違いないでしょう。
だが、田中角栄のようなスケールの世界観は、最後まで持てなかったようです。
日本の真の独立には何が必要かなど、頭の片隅にもなかったことでしょう。
彼の成果はただ一つ。
金権政治を批判しておきながらアメリカの忠犬にしてインサイダー政商、竹中平蔵を育てたことです。
日本国民にとって決してプラスだとは思えない、黒い欲望の怪物・竹中平蔵。
小泉純一郎が育ての親であることは、紛れもない事実です。
でも、小泉純一郎が昔言っていた「我が派はクリーンです」。
昨今の清話会の騒動を見ていると、まるでお笑ですね。
政治資金パーティーのキックバックで、所属国会議員の逮捕者まで出ました。
それでも小泉は強弁するだろう。
「清話会は決して金権派閥ではない」
パーティー券の売り上げが裏金になる『金券派閥』だから、確かに金権とは少し違うかもね。
田中角栄が日中国交回正常化交渉で魅せた、驚愕のエピソードとは?
時代は遡り1972年9月25日のことだった。
内閣総理大臣就任直後の田中角栄は、国交正常化交渉のために中国へ飛んだ。
その時のエピソードが傑出している。
彼の人間力を端的に表現しているエピソードを紹介しよう。
日本側の中心にいたのは、いうまでもなく総理大臣の田中角栄だったが、国交正常化に向けての具体的な交渉は、当時の大平正芳外務大臣と周恩来首相の二人が進めていた。
だが話し合いが始まり、しばらくすると交渉は暗礁に乗り上げる。
肩を落とした大平正芳外務大臣をはじめ一行が控室に戻った。
迎えたのは、角栄だった。
角栄は言う。
「こういう展開になると、東大出のインテリはまるっきしダメだなあ」
大平外務大臣が、ややムキになって言い返す。
「じゃあ、一体どうすればいいと言うのか。
奴らは一筋縄ではいかない。思った以上に手強いぞ。」
「何を言っとる。その対策を考えるのが、大学を出た優秀な諸君の役目じゃないか」
屈託のない角栄の言葉を聞いた一同に笑いが起こり、ムードが和らいだ。
角栄は続けた。
「なあ~に、ここまで来たら譲歩する必要はないよ。とことんやってダメだったら北京まで観光旅行に来たと思えばいいさ。」
この後に続く言葉に一行は感動し、否が応でも震え立つのだった。
「すべての責任は、この俺が取る!!」
角栄の刎頚之友、大平正芳外務大臣は武者震いを覚えたという。
交渉が再開され、田中首相も交えて周恩来首相と会談することになった。
話し合い早々から、周恩来が仕掛けてくる。
「日本軍の侵略によって、中国人民が甚大な災難をこうむった。
あの市ではこれだけの中国人が殺され、あそこの地域では〇千人の中国人民がひどい目に遭った。」
具体的な地名と数字を列挙し、どれだけ中国人民が日本から酷い目に遭わされたか、くどくどと抗議し文句を並べ責め立てる周恩来首相。
黙って聞いていた日本外交団だったが、しかし中国側のとどまるところを知らない執拗な恨み辛みにウンザリしてしまった。
とうとう角栄が切れる。
そして、一気にまくし立てたのだった。
「いい加減にしてもらえませんかなあ。我々は貴国と仲良くなろうとして、こうしてはるばる日本からやって来ておるのです」
「それをあんなことされた、こんなことされたなどと文句ばかり並べられたら、交渉は進展しないではありませんか」
角栄は続ける。
「私は21歳の時に騎兵部隊の二等兵として満州に赴任した。その時、日本軍の大砲や私たち鉄砲隊の銃口はどっちを向いていたか分かりますか?」
周恩来は怪訝な表情を浮かべる。
「えっ?・・・・・・?」
角栄のあまりの剣幕と凄みに、中国側スタッフは黙ってしまう。
少し間をおいて、角栄はドスのきいたダミ声でゆっくりと続ける。
「銃口は、ソ連の方を向いていたのですよ!」
中国の交渉団は一瞬沈黙する。
だが、やがて大きな笑いが起こったという。
中国がソ連から侵略されるのを防ぐために角栄は満州でソ連に向かって銃を構えていた、という意味のことを話したのだ。
同じ共産主義国家でありながら当時の中国とソ連は、必ずしも関係が良好とは言えない状況だった。
そのような事情を徹底的に調べるのは角栄の十八番だ。
このウェット富んだ一言が、起死回生となる。
中国は痛いところを突かれたのだ。
これで一挙に潮目が変わる。
それにしても、すごい男ではないか。
こんな大舞台でユーモアのオブラートに包んで、それとなく相手の弱点を攻める。
翌日には、ようやく毛沢東国家主席が出てきた。
面会したのは田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進自民党幹事長の3人。
日本でも有名になった毛沢東の言葉は、この席で生まれた。
「小異を捨てて大同につく」
「周恩来同志とのケンカは、もう済みましたか?ケンカをしないとダメです。
ケンカをしてこそ初めて仲良くなれます。」
紆余曲折はあったものの、こうした日中首脳の粘り強い交渉により、両国は国交正常化にたどり着いたのだった。
まもなく、日中友好の証として二頭のパンダが上野動物園へ贈られる。
角栄の類まれなる胆力と瞬時に発揮される機転。
そして、器の大きさ。
「責任は俺が取る」
政界を含め今の日本において、この言葉を死語にしてはいけません。
角栄が愛した小金井カントリー倶楽部はキャディ日本一!
ゴルフの名門、小金井カントリー倶楽部には何と言っても『歩きのプレー』へのこだわりがある。
大衆コースはもちろん、他のゴルフ 名門コースでも次々と電動カートが取り入れられるご時世にあって、歩くプレースタイルを変える気はない。
このスタイルを貫くには、良質なキャディさんは欠かすことのできない存在だ。
そして、小金井カントリー倶楽部にはもうひとつ『接客日本一』へのこだわりがある。
小金井CCはかなり以前から、接客サービスには定評があった。
筆者は何度もプレーしたがゲストに対するフロントの対応はまるで一流ホテル並みであり、レストランの接客も実に明るくソフトでありながら、テキパキとして素晴らしいと思っていました。
浴場やロッカールームで働く人たちも同様に言葉も丁寧であったから、さすが田中角栄が愛したゴルフの名門コースだけあって、社員教育は徹底されているのでしょう。
小金井カントリー倶楽部のキャディさんはこれはもう文句なしである。
礼儀正しく、誠実でメンバーとゲストの分け隔ては全く感じさせません。
ホールごとの特徴を良くつかんでいるから、グリーンまでの残りの距離やグリーン上のライン読みも安心して任せられるのです。
お世辞抜きにして、小金井カントリー倶楽部のキャディさんは優秀です。
ところで、あなたはご存知でしょうか、毎年10月18日は『キャディーの日』であることを。
小金井カントリー倶楽部が2018年日本記念日協会に申請して、公認されたのだ。
これはゴルフ業界にとって第1回日本オープンが行われた5月28日の『ゴルフ記念日』に次いで、2番目の記念日になるそうです。
日本一とも言うべき小金井カントリー倶楽部のキャディさんを引き連れて、角さんも名門コースを幾度となくラウンドしたのであった。
2017年、GDOとゴルフ専門雑誌である週刊ゴルフダイジェストの共同調査によって、この接客サービス部門で小金井カントリー倶楽部は日本一に輝いたのです。
不思議なものだ、以前から評判であってもこのように数字で具体的に証明され、活字になるとがぜん周囲の注目度が増し、当事者には改めて自負が生まれるのですから。
小金井カントリー俱楽部は次のような趣旨を述べている。
倶楽部の接客サービスの中で、最も長くゴルファーと接するのがキャディーさんです。
優秀なキャディさんあってこその『接客サービス日本一』であるとの感謝を表すために『キャディーの日』登録を申請したのである。 |
さて、角さんであるが後述する超名門コース、あの軽井沢ゴルフ倶楽部でも爆笑エピソードを残しているから、やはり憎めない男である。
孫正義氏を拒絶した小金井CCで勃発した打ち込み事件!
<道の両サイドが小金井カントリー倶楽部>
どうやら最近、小金井カントリー倶楽部でメンバー間の争いが起き、理事会を巻き込んだ内紛にまで発展しているようです。
詳しい情報は入手していませんので、週刊新潮の電子版を引用します。
その前に小金井カントリー倶楽部の入会条件を見ておきましょう。
《小金井カントリー倶楽部、入会条件》
女性入会:不可 外国籍入会:不可
・日本国籍を持つ35歳以上の男子であること
・株式の取得 小金井ゴルフ株式会社の株主であること
但し、入会申込は株式取得前でも行うことができる。株式取得前に入会申込をする場合は、入会承認後6ヶ月以内に株式を取得すること。
・紹介者の資格
紹介者は2名必要である。いずれも正会員として在籍3年以上且つ平均月1回以上来場される会員、あるいは在籍5年以上の正会員に限る。
・他クラブ在籍 原則として他クラブに在籍していること
クラブ在籍証明書とハンディキャップ証明書を提出すること。
赤色のマーカーをつけた紹介者を保証人に変更するべきだと思いますね。
今や日本の産業界は年功序列が大きく崩れつつあります。
それは取りも直さず、長幼の序にも少なからず影響を与えるということでもあります。
つまり、社会全体に先輩後輩の意識が、急速に薄れつつあるということです。
若年者から活発な意見が出ることは望ましいことであり、決して否定はしませんが、同時に古い体質のクラブ運営には齟齬を生じさせる懸念もあります。
ネットなどを見ていると若手成功者の中には、若さと勢いに任せて傍若無人に振舞う者が少なからず散見できます。
現代の起業家には、組織の規則や不文律に縛られるのを嫌がる人が多いのも特徴でしょう。
だが、名声や権威は欲しい。
それを矛盾と考えない人もいるのが現代社会。
そのような人たちが直ちに小金井カントリー俱楽部へ入会申請するかどうかは別として、古き良き伝統を守りたければ、予防策は必要でしょう。
穏やかな表情で倶楽部の面接に現れ、会員になるとある日、突然豹変する人もいます。
名門を好まない人もいるようですが、私は憧れの存在は必要だというのが持論。
一部メンバーの暴走を防ぐには、入会時の良識ある紹介者を保証人として、一定期間責任を持ってもらうシステムが不可欠だと思います。
職業や年収では見分けがつかない事、人が増えている昨今。
昔は『金持ち喧嘩せず』と言われましたが、今はそうも言っていられません。
そもそも、プレー中に樹木の伐採を巡ってメンバー同士が口論というのもよく理解できませんし、一度の打ち込みで退会勧告というのも重すぎる罰則ですね。
これは突発的な事件ではなく、以前からの対立や憎悪が招いた事態とも取れます。
孫正義氏を入会審査で落としておいて、プレー中に違う組で回るメンバーが言い争う。
ちょっと、迷走気味ですね、名門・小金井カントリー倶楽部さん。
いずれにしても、詳しい情報が入り次第詳報したいと思います。
では、新潮の記事をどうぞ。
ゴルフジャーナリストの児島宏氏によれば、
「小金井カントリー倶楽部は都心から近い立地にあり、政財界や芸能界の関係者に好まれています。コース設計も素晴らしく、とりわけバンカーや池の配置が絶妙。ゴルフ好きの間では“小金井の会員”というだけでステータスです」
実際、バブル期には会員権の相場が4億円とまで囁かれた。それほどの名門クラブを舞台に“内紛騒動”が持ち上がっているのだ。
会員のひとりが言う。
「事の発端は昨年10月上旬。クラブのロッカールームに、ある会員に対する退会勧告の通達が貼り出されたんです。ラウンド中に前組のメンバーとコース内の樹木の伐採を巡って言い争いになって、その後に“打ち込み”をしてしまったらしい」
ゴルフを嗜まない方に解説すると、打ち込みとは、前を行く組との距離が十分に離れていない状態で、ショットを打ってしまう行為を指す。
「打ち込みがいけないというのは、ゴルフのエチケットでいえばイロハの“イ”です。相手にボールが当たれば危険だし、プレーの妨げにもなる。ホールの長短にもよりますが、前組がホールアウトするか、少なくともグリーンに上ってからでないと、後のプレーヤーはショットを打つべきではありません」(児島氏)
打ち込みが事実なら、厳しい処分も理解できなくはない。だが、この一件は思わぬ展開を見せるのだった。
倶楽部を告訴
先の会員が続ける。
「クラブの理事会は、この会員に“退会勧告”という重い決議を下しました。しかし、まもなくこの会員が決議の“無効確認”を求め、クラブを相手取って裁判を起こした。さらに、この件に関する調査委員会まで立ち上がっています。
その報告書によれば、前組のプレーヤーが〈「意図的に打ち込んだのではないか」と疑念を抱いてもおかしくない状況であったと考えられる〉としながらも、処分は妥当でないと指摘。“打ち込まれた側”の会員が理事として決議に参加した点などが、〈会則に違反する〉と断じました」
この調査報告書が出回るや、有志のメンバーが、決議に賛成した理事8人に対して辞任を求める事態に。
提訴した会員の弁護士は、
「前組の方と議論になったのは事実ですが、そもそも打ち込みはしていないと主張しています」
と、理事会の決議に真っ向から異を唱える。
自身も辞任を求められた村越政雄理事長は、
「係争中の案件なのでいまは一切話せません」
いまだ真相は藪の中だが、紳士の社交場らしからぬ内紛騒動は当分、収まりそうにない。
「週刊新潮」2021年3月4日号 掲載
出典:週刊新潮電子版
プレー中に樹木の伐採を巡ってメンバー同士が口論というのもよく理解できませんし、一度の打ち込みで退会勧告というのも重すぎる罰則ですね。
これは突発的な事件ではなく、以前からの対立構造が招いた事態とも取れます。
いずれにしても、詳しい情報が入り次第詳報したいと思います。
田中角栄が愛した名門・小金井カントリー俱楽部で勃発した内紛とは?
あの角さんも愛し、平成元年秋から翌2年2月頃にかけて正会員権の相場が、驚異の4億円をつけた小金井カントリー倶楽部。
現在は4000万円から4500万円のようですが、依然として日本一高い会員権価格であることには変わりありません。
小金井の名を冠していますが実際の所在地は東京都小平市であるこの名門コースが、内紛によって俄かに世間の注目を浴びることになったのは、2015年春のことでした。
中央線東小金井駅からは約3Kmで、、西武新宿線花小金井駅下車なら約1.4Kmと徒歩圏内であり、タクシーに乗ると目と鼻の先。
中央自動車道調布ICからは約15分と恵まれた立地にあるこの名門コースが、メンバーである医師グループの指摘により、その杜撰な経営実態が浮き彫りになったのである。
当時の理事長が数千万円もの機材購入を独断で決めたことや、特定の会員にゴルフ場利用に関して特別な便宜を図ったことが利益供与にあたると会員から追及されたのです。
理事長の2つの疑惑だけにとどまらず、一部の理事による公私混同ぶりも目に余ったようで、匿名の怪文書まで飛び交う平成史上まれに見る騒ぎとなった。
女性のプレーが禁止されている日曜日に自分の妻を同伴して夫婦でプレーするというトンデモナイ規約違反をしたり、知人であるレッスンプロをゴルフ場に常駐させレッスンのアルバイトをさせるなど、訳の分からない大胆不敵な御仁まで現れる始末である。
極めつきはカントリー倶楽部の命とも言うべき芝生の管理を、付き合いのあった関西の造園業者に委託した理事であろう。
ホールの芝はフェアウエのいたるところで剥げ、ラフの雑草は伸び放題となり、このフラットな林間の小金井CCが一時は河川敷かと見紛うくらい酷い状態だったというから何をか況やである。
耳を疑いたくなる話だが、この造園業者と契約担当理事との間に裏金の存在が噂されたのである。
あの、小金井カントリー倶楽部の理事がである。
フェアウエは荒れ放題なのに造園業者には、毎月1500万円が支払われていたようである。
そこから担当理事に相当額がキックバックされたのでは、との噂が立ったのであった。
そもそも、東京都のど真ん中にある名門コースのメンティナンスが、なぜ遠方にある関西の造園業者なのか?
芝生は生き物である。
四季を通じて、毎日手入れが欠かせない。
どのように管理していたのかはわからないが、霞ヶ関カンツリー倶楽部のやり方を見習うべきであろう。
倶楽部が自前で育てた20数人の職人さんたちが愛情を込めて、36ホールの芝生や1万本に及ぶ樹木を管理する、それが霞ヶ関カンツリー倶楽部の施設管理部門である。
毎月、1500万円もの支払いを受けながら芝を適切に管理できなかった業者は、造園業を名乗る資格のないインチキ者であったと思われる。
まじめな造園業の人たちから見たら、噴飯ものとしか言いようがない無様さである。
しかも、名義変更料の1500万円を加えると現在でも正会員として入会するには、6000万円もかかるリッチな社交場としてあまりにも有名な小金井カントリー倶楽部。
その名が海外にまで知れ渡る名門カントリー倶楽部の理事が、関係業者から賄賂を受け取っていたとの噂さが立つなんて。
なんだか、情けないというか、人間のサガを感じずにはいられません。
しかし、名門コースと言えども所詮、人間の集まり。
少ないとは言っても350人前後のメンバーがいるのだから、ややっこしい人間が何人か紛れ込んでいても不思議はない。
このように一部理事のご乱心やご乱行によって、小金井CCは2億円を超える累積赤字を抱えたといわれる。
この赤字を埋めるためもあって同CCは現在年会費が324,000万円(税込・以下同じ)であり、名義変更料も超高額になったのである。
年会費は関東地区のゴルフの名門コース、武蔵GC(埼玉)162,000円、戸塚CC(神奈川)108,000円、相模原GC(神奈川)129,600円、鷹の台CC(千葉)194,000円、大利根GC(茨城)64,800円などと比較してもこれは高い。
ちなみに東京オリンピックの競技会場となる、霞ヶ関カンツリー倶楽部は162,000円で最近会員権相場が上昇傾向にある、人気の厚木国際CC(神奈川)は54,000円となっている。
東京には多摩丘陵の稲城市や八王子など新宿から電車利用が便利な、京王線や小田急線沿線にゴルフの名門コースと呼ばれるところがいくつかある。 参考までに年会費は桜が丘CCが54,000円、東京よみうりCCが75,600円である。 |
疑惑を追及するため15年3月半ばに開かれた小金井CCの臨時株主総会は、理事長らによる説明や弁明に納得する者は少なく、6時間を超えても決着しなかったというのだから、その紛糾ぶりが分かろうというものです。
この後3月31日には理事長以下疑惑の理事が辞任し、6月の株主総会で新理事15名が選出され理事長代行に就任したのが草刈隆郎氏だ。
かつて日本郵船会長、相談役を勤め経団連副会長を歴任した、知る人ぞ知る財界重鎮の1人でる。
「こんなにゴダゴダ混乱している時期に理事長という中心的な立場になる人なんて、いなくてあたりまえですよ。
あえてトップを引き受ける方がおかしいんですよ」
取材に対して、小金井カントリー倶楽部の理事長代行となった草刈氏はこう話していました。
さらに彼は続けるのであった。
「私ももう年だし、面倒くさい、正直なところ。
いい加減にしてくれという気持ちもありますが、しかしこのままじゃダメだ、正常化しなければいけない。
新理事長が決まるまでの間、私が代行すると言うことですよ」
当時、草刈氏は75歳であった。
2019年2月現在この名門、小金井カントリー倶楽部の理事長は草刈隆郎氏である。
理事長代行として手腕を発揮し、ほどなく正式な理事長に就任した草刈氏は、3年ほどの歳月をかけて名門にようやく落ち着きを取り戻させたのである。
内紛によって揺れに揺れた、小金井カントリー倶楽部であるが、そのサービス日本一のが座は揺るがないのであった。
角さん軽井沢カントリー倶楽部でのエピソードはこちらから↓
ゴルフと田中角栄・青木功をキャディ扱いした?角さん
青木功氏といえば誰もが認めるゴルフ界のレジェンドですが、プロ生活50周年を記念して著書『勝負論』を刊行した。
その中に田中角栄のキャディを務めた話があり、そのいきさつがとても愉快なので紹介しましょう。
プロになって10勝ほど挙げた頃、青木氏に所属先の社主だった小佐野賢治氏から電話が入った。
この小佐野賢治氏は田中角栄が刎頚之友、と表現した存在だった。
「明日、暇なら箱根に来ないか。
角さんと一緒にゴルフをやるから」
ところがである、翌朝箱根CCに行くとすでにメンバー4人が揃っていたため、青木氏が入る余地はなかった。
4人の中には田中角栄もいた。
そこで、青木氏は自分から申し出た。
「田中さんのキャディをやらせてもらいます」
青木氏は角さんがレッスン書を読み漁ったり、東京・赤坂の練習場でかなり打ち込んでいると聞いていた。
スコアよりも1日2、3ラウンドくらい回ることに重点を置いているとも聞いていて、当時角さんのスコアはせいぜい90から110の間を行ったり来たりだったことも把握していた。
青木氏は最初の数ホール、何も言わずに角さんのプレーを観察した。
アマチュアだから、ある程度のショットのバラつきは仕方ないのだが、コースマネジメントというか、攻め方があまりにも無頓着くで勿体無いと感じるゴルフだった。
「先生、ここは5番なんかで打っちゃだめです。
8番で右のバンカーの手前を狙って下さい」
また、
「ここからだったら転がすべきです、その方がアプローチはうまくいきます」
という具合にアドバイスしたら、その後はそれなりに上手くいったのだと言う。
喜びながら角さんは、あの独特のだみ声で
「君はどうやら、ゴルフが上手そうだな」
きっと青木氏を研修生か何かだと思いこんでいたのだろう。
可笑しくてしょうがない青木氏だったのだが、しばらくすると、
「今日は黙って君が選んだクラブを使うから、俺に90を切らせてくれよ」
「ハイ、いいですよ。
そのかわり、ホントに私の言う通りに打って下さいよ」
「おお、打つとも、その代り80台だぞ」
そこからは角さんの全てのショットで青木氏がクラブを選び、パットのラインも読んだ甲斐あって、結果的に前半を42だったか43という角さんのベストスコアで回ったのだと言う。
無邪気にはしゃぐ角さんに、
「先生、前半だけ良かったからって喜ぶのは早過ぎです。
今日は絶対に90を切ってもらいますから」
とハッパをかけた。
「ヨッシャ!」
総理大臣まで昇り詰めた人物がどこの誰だか分からない男のアドバイス従って、真剣に懸命にプレーしたのだった。
「この真剣さ、何とか90を切らせたい」
青木氏も思わず、心の中でそうつぶやいたのだと言う。
後半9ホールはスコアを意識し過ぎたあまり苦戦したが、何とかトータル88でホールアウトした。
「ありがとう、ありがとう。
君のお陰で遂に90が切れたよ」
と喜色満面の大喜びだった。
青木氏も自分のことのように嬉しくなって満足感に浸っていると、角さんが小佐野氏に言った。
「賢ちゃん、この男、なかなかゴルフが上手いぞ。
見込みがあるから面倒みてやりなよ。
わしがプロになることを保証するよ」
それを聞いた皆が笑い転げていると、
「おい、青木よ。
お前は今、ツアーで何勝ぐらいしてるんだっけ?」
笑顔で小佐野さんが青木氏に聞いてきた。
「えーっと、10勝はしていまけど」
すると角さんは、
「ん、ん……? そうか、そうか、なんだそうだったのか。
どうりで上手いはずだな、ワッハッハ」
と、クラブハウスへ引き上げて行ったのだった。
青木氏は角さんについて
「何とも温かみのある無邪気な方だったですねえ」
「自然体でコミュニケーションを取ると、地位や名誉なんて関係なくなるものなんだね」
と本書で語っている。
如何にも角さんらしいエピソードであるが、青木氏の対応もまた素晴らしかった。
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